CLANNAD AFTER STORY 9話のだいいちいんしょう

ありえねえヤベえパネえ天才だ神だクラナドは人生だ!
やべえすげえイイめちゃくちゃイイ死ぬかと思ったつうか泣いた、てゆうか、まだ第9話でこれからあんなことやこんなことが起こりまくってアレなのに、まだ第9話なのに、この歪みの無さはどういうことなの?
第9話で泣くとか第11話じゃボロ泣きで第17話じゃ声を上げての大泣きで第18話じゃ発狂しそうなほど大泣きで第19話じゃ近所に通報されるくらい爆泣きで第20話じゃ泣きすぎて失禁して第21話じゃ泣きすぎて失神して第22話じゃ泣きすぎで病院運ばれて第23話じゃ泣きすぎて脱水症状起こしてそして第24話で死ぬんじゃね? そしてクラナドを見て死ぬということは正にCLANNADは人生を体現したということでもありその時の僕の死に顔は満面の笑みが浮かんでいるんじゃね。


しかしまあ杏とかことみとか椋とか智代とかと仲良くなってたのがこんな形で生かされるとは思いもしませんでした。仲の良い友達や信頼できる仲間とも学校という場所から卒業として離れてしまえば、何の特別も物語もなくただ時間切れかのように別れることになるのです。たかだか仲が良いや信頼できる程度で、他の特別を持って(築いて/例えば渚とのように)いなければ、時間と空間に軽々と切断されてしまうのです。そして僕らはそこに自分の何かを投影してうぎゃー!死ぬるー!となるのです。ああもう死んだよ、こんなのねえよ!
たぶんね、20話くらいまで見た後に今回を見返すと絶対死ぬ、と思う。てゆうか僕は今回期待半分不安半分だったから自分を乗せる為にそういう気持ちで見ていた。そしたら死んだというわけだ。肉体じゃなくて精神が。
あと渚発熱後の朋也くん一人語りのターンが、もの凄く早い進みで、僅かな時間で半年くらいの期間が過ぎちゃうんだけど、これは非常に上手い。渚が居ない学校生活なんてこんなもので、朋也くんにとって「なにもない」と同質なんですよ。というのが絶妙に表れていました。短縮でも省略でも圧縮でもなく表象と表徴の作法です。間違ってもこの期間にサブキャラのストーリーとか描いたらいけないのですね。智代編でもこれと近い感じに時間を操ってましたが、もう素晴らしいっす。


とにかく、今回はもの凄かった。後から見返すともっとヤバイ。さらに次回とか次々回も多分きっと同程度にヤバイ。つうか次回予告からしてヤバイ。もうこれ、最後まで持つかなぁ、精神力が。人生のデザインパターン的な何かを投影でき仮託でき羨望できる(からこそ、CLANNADは人生と呼ばれる(自論))分だけ、実世界の自分の人生が削り取られていく、あるいは忘れてた何かとかを思い出したり反芻したりしてしまう。それが出来るだけの”出来”に、京アニが仕立て上げているからこそ――てゆうかこれ、ある意味じゃ原作以上じゃね? 『カメラ』って要素は根本的に窃視の観念に嵌っていて、例えば主観視点なんかもカメラと目線が最初から最後まで完璧に同期している先鋭的な作品でもない限り、それは主観を仮想的に打ち立てたものに過ぎなかったりします(視線の通りにカメラが動くことはあっても”カメラの通りに視線が動かない”という点で序列が成り立っている/余談ですが、ゲームのFPSの一部なんかは、ここがほぼ完全に同一だったりしますね)。その傍観性は、ゲームの方の同一化とはまた違う投影・仮託を生み出し、さらにそこから離れた『自己を見つめる』という点では、ゲームよりもさらに深化して汲み取れるのかもしれないなーとか。
あと練らなきゃアレなことだけど、CLAアフは4:3とワイド両方作ってる関係からか、しょっちゅうカメラが動く(PANとかめっちゃしますよね)んですけど、これはまたヤバイ。扇情的かつ扇動的。カメラの動きから受け取る/意味付ける欲動的なまなざしが、効果・効率でいえば良いかどうかは微妙っぽい(精査しないとね)なんだけど、Kanonとかの全然カメラ動かない京アニ過去作と比べると、圧倒的。感情を誘発しすぎるんですよ。


ええと、纏まってないけど、第一印象だからねー、いつもこんな感じですし。見返せば言うこと変わるかもです。それではー。