京都アニメーションのなぜかエロい身体について

※いくつか画像を引用していますが、あくまでも本項においては「動きを伴うソレ」に大きな意味がありまして、この画像は、参考・資料ではなく、「わたしが言及しているのはアニメにおけるこの画像のあたりの動き・シーンですよ」という、指標としての意味しかありません。アニメ自体の方を参照・あるいは反芻していだけるとありがたいです。


先日、思いつくがままに記した「京都アニメーションのエロ」について(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090117/1232126331)ですが、よくよく思案した所、それはどういうことなのか、はたして何なのかが、わかりました。
先日の文章をご覧になっておられない方向けに一言申し標しておきますと、わたしがここでいう「京都アニメーションのエロ」とは、例えばパンツが見せるとかおっぱいがポロリとか体育倉庫に閉じ込められて二人きりとかそういったものでは「断じて無く」、単にキャラクターの身体――それも、必ず、『動きが伴うもの』――においてです。




例えば、『空を見上げる少女の瞳に映る世界』のオープニングにおけるピタッと張り付く服、そこから覗ける線・形状なんかは非常に端的――つまり直接的といえるでしょう。体のラインがくっきりとか、パンツ見えそう的な。それも含まれる事例かと思いますが、しかしここで真に言いたいのは、正鵠を期すのは、下記です。




決してそれを特別とする性癖を内在していない――といいますか、調べても自覚できるレベルでは内在していない――いや、内在していないは言い過ぎですね、「そこまでは強くない」と言い換えておくべきでしょうか。少なくともわたくしにそのような性癖は強く存在していません(意識上は)が、ええ、だからこそこれが「なぜか」になるのですが、なぜか、このような、渚が腕を動かすだけのような事柄にすら、たまに、あくまでも偶にですが、「うわ、エロ!」という心象を抱いてしまいます。


第一期CLANNAD4話(「仲間を探そう」)の半ばくらい、脚を組んで椅子に座ってる杏が、演劇部の部室で部員集めしている朋也と春原に、「あんたと、あんた」と脚で指し示しているところ(画像持ってくるのメンドイから引用は無しで、でも覚えている方はすぐ思い当たると思います)なんかは、そういう感じの意味でのエロさを感じた方もいらっしゃるのではないでしょうか。


ここでわたしが言いたいのは、よくある、パンツ見せるとかおっぱい見せるとか、あるいはチラリズムとか、もしくは風呂場や海・ビーチサイドなどのシチュエーションとか、体育倉庫に閉じ込められた二人とか一緒の布団で寝るなどの強烈なコンテクストとか”ではなく”、ただの、動きを伴う身体がエロいと述べたいのです。普通のアニメで「エロ」と思われる前者ではなく、京アニは、特に何でもないキャラクターの動きが、たまに(つねにではないですよ)、なぜかエロい。

ちなみに、ここでいう『動き』とは、走るだの跳ぶだの、そういうダイナミックな動きのことを言っているのではなく、もっと細かい、手がちょっと動くとか普通に歩くとかそういうの――極端に言えば、『静止画以外ほぼ全て』を指し示します。わたしたちが一時停止を押した時や、バストアップ以上にアップで映ってる時(近づきすぎて『動き』が拡散している)以外は、殆ど全てですね。


ちなみに、その辺は何もエロくないよ、って人は、ここから先を読む必要ないかとw
うん、全部書いてから思ったんだけど、これフツーに性癖的な問題かもしれんね……!


さて。
それがなぜか、というと、色々理由はあるでしょうが、とりあえずわたしが一番に思いつく理由は、アニメは、アニメで描かれるそのキャラクターのその運動は、「主体」を強く持つもつ場合もあるけれど、すべからくそうであるのではなく、その主体が消える場合もあるからだろうなぁと。そこにこそ、このエロさは当て嵌まっています。
アニメというのは全部作られたものですからね。例えば映画は、キャラクターの動きの主体がどこに回収されるかというと、それは脚本・演出と演技者と役とをカメラという主体なきパースペクティヴ(カメラを監督の眼と喩えることはできましょうが、それは主体ではなく主観でしかありません)を介して受容することにより、ありとあらゆる運動・時間はその主体や対象から解放化・抽象化される――つまり、何ものでもないただの運動や時間が存在して、主体は二次的に内在に外在されるか、外在に内在されるしかなくなると思うのですが(例えるなら、「三丁目の夕日」の世界のどこかでジェームズ・ボンドと寅さんがライトセーバー持ってマトリックスみたいなバトルを行う姿を容易かつ詳細に想像できるくらいに交換可能である、ということ)。
アニメもまた、それと同じくらいに、主体がなく、交換可能である、そういう時もある。
基本的にはその逆のような現象が起きていると思います。全てが作られたモノであるからこそ、まずは作り手が主体として回収する・されるのはみなさんご存知でしょう。作品内のキャラクターがどれほど素晴らしい動きを見せても、それは(その主体は)作品内のキャラのものとして回収されず、まずアニメーターに、もし個人が不明(ないし特定不可能)だったり回収できるほどの個性として立脚していなかったり、作品全体における統一的特徴だったりすると、制作会社に回収されるでしょう。松本憲生さんの作画は、例えば『NARUTO』など有名ですけど、アレを見て、「今日のナルト(キャラクターの名前の方ね)はいつもより動くなぁ。これはナルトが気合入ってるからだな。サスケの動きがいいのも、彼が何かに目覚めたからだなぁ」などとは思わないでしょう――思うとしても、”そう描いてあるからそうである”という、あくまで副次的・二次的なものでしょう。
作り手が創っていることが明らかゆえに、作り手の方に回収されるでしょう。
その動きはナルトやサスケのものではなく(二次的にしかそうではなく)、一次的には、作り手のもの。キャラクターが主体的にこの動きをしたのではなく、作り手が主体的にこの動きをさせたのです。主体は作り手の方に回収されるのです。それは有名な作画の方、スターアニメーターにのみいえることではないでしょう。全てが作られたモノであるアニメにおいては、映画などよりもっと直接的に、「作り手」の存在が主体となるし、受け手もまた、そうだと分かる(アニメ評って何でこんなに作り手の名前出しまくるんだろう。作者はいつ死ぬんだ(作者の死的な意味で)。と、以前いぶかしんだのですが、作り手に自然と回収されるこの形態では、それは一つの正しい形というか当たり前でもあったのでしょうね)。これは逆の、「優れていない方」――例えば作画崩壊などと呼ばれる現象にもいえるでしょう。作中のキャラクターが中割りの少ないギクシャクとした動きをしているのではなく、作り手が中割りの少ないギクシャクとした動きをさせてしまっている。
ひとつ補遺をいたしますと、映画は、実写ゆえに、アニメと同じ様に本質的には役者・あるいは脚本や演出などの「作り手」側に主体が回収されるべきなのに、現実と同じく実写であるがゆえに、あくまでも仮初めのアイデンティティー、ともすると商品的に形成されたアイデンティティーである「役(キャラクター)」の方に回収しようと試みることが可能になるがゆえに、どちらにも回収しきれない残余が生じる、ということができます(本記事は『カメラ』を無茶を承知で基本的に無視した上でのお話です)(カメラの話は次回に続くので)。究極的には非人称的なのです。わたしたちも、社会生活において、何らかの「役」を演じるように行いますが(ペルソナ)、それと同じ様なことです。「ある発言」をしたとして、私は、私の立場――社会的な役割――でそれを言ったのか・言いたかったのか、あるいは、そこから離れた私自身がそれを言ったのか・言いたかったのか。どちらにも回収できるし、あるいは二つの総和に回収するべきかもしれないし、そしてそのどれを選択しても、全てを回収しきれない(そもそも「本当の」「真の」みたいな主体自体が在り得ない(斜線が引かれる)という話ですが)。映画の「役(キャラクター)」と「作り手(役者)」についても、それと似たような形で、つまりわたしたち観客からすると”どちらが上”のような、明確な、絶対的地位がないのです。むしろ昔の人が申したように、観客からすると、役と、役者で、多少の性質の交換が執り行われているように感じられるほど、同位的なものである――と同時に、それらは現前する映像の主体たりえない、人称たりえない、といえるでしょう。
アニメは実写ではなく、観てわかるとおり、絵ですから、現実と異なる表象ですから、上記ほどの(ともすると倒錯的な)交錯はありえません。AというキャラがAというキャラなのは、(視聴者からすると)Aというキャラとして描かれているからであって、描写の結線が結実した途上途上の集合体としてのみ、AというキャラはAというキャラなのです。つまり、作り手の存在が確固としてある。
しかしある程度の交錯性――キャラクターの方の主体性と見えてしまうもの、があるのも明らかでしょう。いわゆる一貫性とか設定みたいな話です。渚が100メートル10秒くらいで走りきったらオカシイし、朋也が夜一人でトイレ行けないとガタガタ震えてたらオカシイでしょう。そのような逸脱は、ギャグシーンとして回収される以外では、作画崩壊と同じく、超展開や設定崩壊みたいな語句で糾弾されてしまうでしょう。作り手という主体がそうさせている、という本性が顕になりすぎて、作り手が表舞台に立ってしまうからです。ああ、むしろ、そんなものがもしあっても、勝手にギャグシーンとして視聴者は回収してしまうかもしれませんね。そこまで大きな逸脱なら。
いずれにせよ、そのような、回収しきれない縛りはあります。もし、同一のアニメーターが作画を手がけたとしても、ナルトが渚の動きをすることはできない(オカシイ)し、渚がナルトの動きをすることはできない(オカシイ)でしょう。キャラクターに依った交換不可能性は生じます。ただ同時に、作り手(アニメーター)に依った交換不可能性も生じる。誰がナルトを描いたって、渚を描いたって、みんな同じになるわけではないでしょう。しかし、特定の誰かが、ナルトを描いて渚を描いても、その両者が同じになるわけではまたないでしょう。つまり回収不可能な残余が生じるのです。



京都アニメーションのエロさについて。作者側の「どうだエロいだろう」という見せびらかすような主体性が欠如している点を、重要と感じ取りました。つまり、ここまでの話を踏まえて言うと、わたしが勝手にエロいと思ってるかのように感じられるからこそ、わたしはそれをエロいと思えるのです。




逆説的ですが、『CLANNAD AFTER STORY』エンディングの、出だしのところなんかは、まさにその、見せびらかすような主体性の欠如でしょう。あそこ、渚――ではないかもしれないけれど、ここでは便宜的に渚ということにしておきます――がスキップするかのように脚を大きく動かして歩いていますが、あれ、実は本編での彼女のスカートの丈より、ちょっと長くなっている・あるいは形状がちょっと変わっている感じです。本編に比べてエンディングのこの箇所だけは、衣服の丈が長くなっている、あるいは(というか、かつ)激しく動いてもオッケーなように、布地がボリュームあるものになっているようです。これがもし本編と完全に同じだったらどうでしょうか。恐らく、パンツ見えるか、あるいはパンツ見えないにしてもチラリズム的なエロさが生まれてしまいますよね。
このスカートの丈には、普段通りにやったらエロいから、エロくないように、丈を長くしよう、という作り手側の意思が見て取れますよね。だからこそです。だからこそ、われわれはそのただの身体の躍動に、何らかのエロさを感じ取ることができるのです。この記事が謂う京アニのエロさというのは、単純な視覚情報――(パンツなどの)エロい物が見えたからエロい、という、単純な視覚情報ではなく、動きを伴い、キャラクターの身体の線・形状を異化することによりもたらされるのです。
らき☆すた』みたいにデフォルメされたものではなく、『CLANNAD』のように現実的頭身・形体にデフォルメされたものであれば、線や形状というのは、その「現実的にデフォルメされた身体」の中で、最も「現実的」に認知できるものではないでしょうか。類像的な意味で。これは「現実的なデフォルメ」ですから、現実に対し類像的である必要はありません。彼女らのプロポーションを見ても明らかなように、類像させるべきは、むしろ、わたしたちの心象の中にあるプロポーションの方にあるでしょう。それは何らかのメディア情報などによって形成された、私たちの中におけるエロティシズムを醸す身体のシニフィアンとでもいうべき存在です。ああ、あるいは、データベース的といってもよろしいかもしれません。そこに類同していくのです(そしてそれこそが、「わたしにとって」という付箋付きですが、「京アニ」に限定される、その一つの理由となります/つまり京アニ(というかこの場合京アニCLANNAD)の造形が好きってこと)。
それはある意味「生物である」的な存在感と、そこからのエロさを生じさせるでしょう。主体に回収しきれない、交換しきれない残余を生じさせる、そのような状況にあるキャラクター(の運動)を、”ここに落とし込めば”、それは非人称的なイメージとして、仮項を与えて実存的な存在感を誇れるのではないでしょうか(むしろそのような状況(非人称的)であるからこそ落とし込めると言えるかもしれません)。そしてそこから――これはわたしの場合だけど――エロが生じる、エロいなぁと感じる。


それらのことは、このように、エロという意図がない――感じ取れない、このようなものだからこそ可能でしょう。作り手側がエロという意思を持っていたら、わたしたちは自身の感情・感性も、そこに影響され、何かを規定され、つまりそれに対する反応のように生じてしまうのだけれども、そのようなものが無ければ――わたしが「うわ、エロ!」と思った渚の腕の動きのように、特に意図もないであろうようなものであれば――いえ、正しく言いますと、『その運動だけであれば』――、何にも回収しきれない。渚らしい動きであるだろうけれど、そもそも人間として普通の動きでもある。アニメーターが何か特別の意図をその動きに込めたとも、意図が潜んでいるとも思えない。その運動の主体は何にも回収しきれない。だから「エロい」とかいって、わたしはそれを愉しむことができるのです
ここまで触れてきませんでしたが、もちろん、『動き(動くこと)』は本項的には重要です。だって動かなきゃ、渚(キャラクター)に、あるいは絵を描いた人に、さらにはキャラクターデザインの人に、全て回収されますから。そこに『動き』という主体がその主体と衝突することによって、回収しきれない状態を生じさせ、非人称的な図像を伴った行為となり、上に記した、データベース的な楽しみ方だろうが、何らかの性癖的な楽しみ方だろうが、自己投影だろうが、他者投影だろうが、充分に可能なほど間口が広がるのです。中心が空虚であるからこそ、中心に(それが可能なものであれば)何でも埋めることができる――そしてそれは、最終的には、代補的に、元のアニメの方に(あるいはキャラクターの方に)回収されていくでしょう。だからこそ、その動きが、身体が、「生物である」的な、生身のような躍動を持てるのです(そしてだからこそ、エロいのです)。
そしてこのように……ありとあらゆる主体から自由となったソレ、というように考えてから『CLANNAD』を観返すと……やばいっすよ、手の動きとかそんなレベルじゃねえ、全部エロい(えー)。自由になったからこそ、まるで現実の人間を見るのと同じ様な感覚で、その瞬間の、その運動を、捉えて、そして「エロい」と思うわけです。


うん、やっぱわたしの個人的な趣向かもしれませんねw
ここまで書いて分かりました。ずっと一般的だと思ってました。だからこの記事も一般論的に書いてしまいました。うん、でも本当は違うんですね、これ。主体うんぬんについてはともかく、それの処理の仕方については、多分、ただの性癖ですね。つまり、変態的なだけですね(笑)。


さて、長くなりましたが……というか説明できていない、そもそも自分でも分かって(咀嚼して)いない、という問題点が露見するばかりとなりましたが、ここらで終えましょう。本文章は、かなりの重要素である「カメラ」についてを無視してきて、それじゃ画竜点睛に欠けるどころか眼しか描いてないような状態、飛車角落ちどころか王将以外全部落ちてるような状態なのですが、それは敢えてです。つい何時間前かに『まりあ†ほりっく』を観まして、それで「京アニとシャフトの対比」みたいな事柄が思い浮かんで(いや別に対比はさせないんですけど)、実はこの記事は、その事柄の前半部分にあたります。「カメラ」については、後半部が占めていますので、今度……というか、そのうち書くと思う、たぶん書く、きっと書く、京アニとシャフトの対比(そっちはさらに分かってないし咀嚼できてないのですがw)的な記事において、補遺したいと思います。つづく。
※追記:めずらしく本当に続き書いた→http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090122/1232557200
ただしいつも通りグダグダな満身創痍となっておりますw なお、京アニとシャフトを対比はしていません。