『まりあ†ほりっく』と脱肉体化/脱性愛化

アニメ『まりあ†ほりっく』視聴は、わたしにとって魅力的でしかたないのですが、しかし、どうしてそうなのだろう?
そのことをここ数日考えていたのですが、どうにも纏まらず――ただし記事タイトルにもした「脱肉体/性愛化」に目星が付いた――纏まらないゆえ、メモ的、断片的ながらも、ここに記そうかと思います。茉莉花や、鞠也に関して、鞠也→かなこに関して、あるいは鞠也←→かなこに関してをまるで触れることができなかった、現時点では情報不足で触れることができなかった以上、4話以降という見地からすると、あるいは原作既読者の見地からすると、色々とずれているところもあろうと思いますが、その辺は適度に流していただけるとありがたいです(わたしは原作未読&これは第4話まで視聴した時点で書いています)。尚、当然ですが、これはわたしにとってのです。わたしの視聴体験にとってのです。他の方にとってどうなのかは分かりません。しかしこんな散文が、他の方の何かの足しになることを祈って。

導入

『女装』について。
「祇堂鞠也」という、そのまんま女装キャラクターが登場していますが、一まず措いておいて、それよりもまずは「宮前かなこ」に注目してみましょう。かなこは、女装している男性ではなく、女性です。しかし彼女は、少し変わっていて、女だけど男がダメ(嫌いとか以前に、触れると蕁麻疹が出ちゃうように物理的にダメ)、そして女だけど女が好き。この「好き」は、比較的恋愛的な意味で、です。
とはいえその恋愛的な意味は、一般的な男女の恋愛と全く同じというわけではありません。肉体的な間柄、つまり肉欲的なもの、性愛的なものからは、ある程度(もしくは、かなり)遠ざかっています。
また、「恋愛的な意味」というだけでは一意には限定しきれない部分もあります。「かなこさんは美少女にいじめられて喜んでいます」(3話)「倒錯している」(4話ラスト)といったように、それはかなり過剰な、享楽としての側面も持っています。――持っていますというか、積極的に引き受けて、そこに自ら飛び込んですらいます。それは自分のやっていることが、一般的にも社会的にも受け入れられないことだから(かつそれを自覚しているから)、でもあるかもしれません。
そんなかなこさんは、男がダメで物理的にも男がダメなかなこさんは、いわゆる「女子校」に転入してくるわけですが、それは一言でいえば「女の子が好きだから」でした。彼女曰く、「ここで運命の相手を見つける」。 彼女の両親が”この学校で出会った”ということも、大きく関わっているでしょう。毎度毎度「天国のおかあさん」というかなこの独白が入るように、彼女にとって、母は、特別な位置を占める存在だと思われます。それがどういう位置なのかは、現時点(第4話時点)ではあまりに定かではないので、ひとまず措いておきましょう。とりあえず、一般的なその関係以上の何か、かなこにおける母以外の他人以上の何か、つまり「特別」である可能性が非常に高いということだけは頭に留めておきましょう。
そんなかなこさんは、この学校で、次から次に”美少女”と出会います。「ああ、次から次に、色んなタイプの美少女がこんなに!」みたいなこと、かなこ自身が申して(しかもハナジ出しながら)しまうほど、それは明瞭に登場していました。
これは一見すると、いわゆる「ハーレムアニメ」構造を、ただその中心に座るのが男から女(かなこ)に変わっただけのハーレムアニメ構造を再現しているかのようですし、もちろんそういう見方もできますが、しかしある点において、それを大きくはみ出していたりもします。それをこれから考えてみたいと思います。

脱肉体・脱性愛

かなこの「男ダメ、女の子好き」は、作中でも謂われている(アンド自分で心の中で謂ってる)とおり、いわゆる「レズ」や「百合」といったニュアンスですが、それは私たちがエロティックに想像するような、身体べたべた真性ガチムチくんずほぐれず濡れ手に粟でその花びらにくちずけをするレズビアンでも百合でもなくて、4話ラストの可愛らしい想像が象徴するようなレズビアンです。

「一緒に公園を散歩したり、桜の木の下でお花見したり、団子たべたり、ひざまくらしてもらったり、耳をほじほじしてもらったり、夕日の海岸を手を繋いで走ったり、浦安の方にある具体的に名前を出すのはちょっとマズイ遊園地に行ったり、プリクラ撮ったり、かわいいお弁当作ってもらったり、一緒に無人島に流されたり、砂浜でサンオイル塗ってもらったり、夜明けのコーヒーふたりで飲んだり、雪の中二人で片寄せ相合傘のクリスマスイブの夜だったり、もちつきしたり、除夜の鐘をついたり、あとあと、それから初詣にお年玉、お姫さま抱っこ、すごろく、交換日記、はねつき、温泉、卓球、ツイスター、王様ゲーム!あひゃひゃうふふひゃ」(第4話より)

「毎日一緒に帰ったり、放課後の誰も居ない理科室で二人だけの時間を過ごしたり、そして休日のデート、はじめてのデートはやっぱり映画館?それともみなとの見える公園?ふたりでひとつのソフトクリームを舐めたりしながら手を繋いで歩くの。キスはお互いのことをもう少し知り合ってから。でも3回目のデートくらいまでには何とかしたいなぁ。そして夏休みには旅行にも。ちょっぴり危険な夏の海。はじめての二人きりでのお泊り。天国のママにもいえないひみつ・・・」(同じく第4話より)

身体面に関する強い性欲的なもの、性愛的なものが欠けた、非常にソフトな方向性のものです。
かなこは、いわゆる『肉体関係』を第一としては望んではいない、望んでいるのは『仲良くなる』の延長――大延長と言った方が良いでしょうか。そも、男の肉体への過剰な嫌悪が示すように、第一にあるのは「肉体性への嫌悪」ですから、――ただ、これは「物の次元にまで高められた嫌悪対象」とでも言うべきでしょうか、鞠也以外の男が登場しないので何とも検証不可能性を残しますが、「鞠也が男だ」というだけで全拒絶に至らないのがある程度の実証となるでしょう。つまり、彼女が嫌うのは、何より嫌うのは、最初は男の心だったのかもしれません(それこそ第一話で語られている理由からすると)が、あまりに行き過ぎて、もはや「男の肉体」そのものになっている。仮にも男である鞠也だけれど、その鞠也の肉体”以外は”、つまり心的な部分に関しては、生理的・物理的には拒絶していないように。まあこればっかりは、鞠也だけが特別という可能性も高いですが。
さて、かなこの望みは『仲良くなる』の延長で、もちろんその先にはキスしたりそれ以上もあるでしょうが、忘れてはならないのは、そっちを第一に考えていない(望んではいない)ということ。ただし、自ら女の子とのキスなどを想像するように、女の子相手のそういうものを受け入れられるということは、肉体的・性愛的な嫌悪は、自ら自身のソレというより・あるいはではなく、男性の肉体的・性愛的機能を拒絶しているのかもしれません。ただし、実は作中で彼女が鞠也以外の他人に触れる・触れられるのが極端に少ない――好きな相手だろうが仲良くしたい相手だろうがそうではない相手だろうが、べたべたと他人の身体に触れることが殆どない――その事実を鑑みると、男性のだけではなく、自分のも、嫌悪している(嫌悪せざるを得ない)のかもしれません。現時点(第4話まで)では、答えを出せるような情報量ではなく、留保的な仮定としてですが。


これは、わたしとしては、心地よすぎる視聴体験としか言いようがありません。肉体的性愛に纏わる全てを上手に忌避しているのです。例えば――と例を出すには多すぎるほど”よくある”のですが、例えば。


第4話冒頭、かなこを守る隆顕という、かなこが望む恋愛に則している的なシチュエーション……このシーン自体はかなこの夢なのですが、夢ではない実際の場面でも、かなこの「恋愛」的な部分に関しては、ここでの描かれ方のように、非常に何かが強調されたり、誇張されたり、あるいは萎縮されたりという描かれ方、つまり非写実的な描かれ方が多くなされています。




こういうSDキャラなどもそうでしょう。かなこの恋愛的な琴線に触れる何かがあったとき、あるいは妄想に耽るとき、など。非写実的で、作品内で非統一的。つまり、身体的な部分の生々しさが殺されているのです。脱肉体・脱性愛化。




無論それは、かなこの恋愛・妄想が色濃く出ている場面、それ一辺倒に陥っている場面に限ることではありません。これは第4話の、どうして桐はかなこのことを助けるのかを、かなこが問うている場面ですが、ここで注目したいのが、その脚色されたかのような主張の強い背景です。



あるいは第3話の、いじめ・いやがらせの場面、ロザリオを投げちゃうところ、穂佳(いじめっ子)が泣き出すところ、などにも、形を変えて見て取れるでしょう。そのまんまを描くのではなく、例えば人や背景・あるいは一部を黒く塗ったり、大げさな動きや演技だったり、(泣き出すのを)そのまま描くのではなく何らかの手を加えて描いたり。
つまり、その演出作用が、これがまるで「劇」のようになっているのです。「劇化」している。敢えて何かの脚色や装飾を施すことにより、身体と心情がそのまんまで現われているのではなく、その背景装置を通って描かれている。この作用。非写実的なこれは、演出に塗り固められたそれは、彼女たちの心的本質を薄めずに……というか、心的な部分を誇張し強調しつつ、”肉体的な部分を消滅させている”。運動の主体が彼女たちから離れていくのです。そうなると、画面に残るこの肉体は、彼女たちの”自身の”表出としてではなく、演技の果ての、肉体的本質が彼女たちから剥がれ落ちたただの表現として、残る。
動いているけど、身体はあるけれど、ここにはもう肉体的な生々しさは見受けられないのです。あまりに非現実的な表現が現実が持つ生々しさを”無かったこと”にするかのように……フィクションのようにしてしまい、人間の体が持つ生々しさが、肉体的・性愛的な嫌悪が、消える。これは言うまでもないですが、かなこの男嫌いと相同しています。かなこの男嫌いは――これ書いている段階では第4話なので断言できませんが、少なくともその第4話時点までならば、男の心よりも(原因的には逆だとしても現今的には)まず先に生理的に物理的に肉体に対し嫌悪を抱くという、かなこの内面に相同している。かなこが生々しさを嫌悪しているように、映像が肉体の生々しさを除いている。
もちろん、それは常にではありません。例えば、かなこが(鞠也以外の)他人に触れる・触れられることが極端に少ないというのも確かにありますが、それだって「少ない」というだけで、決してないわけではない。それと同じ様に、肉体的な生々しさを背景や塗りや絵のタッチや何やらで「隠して(あるいは、茶化して)」匂い消しをしていない場面だって、当然あります。それはさながら、こちらの「劇化」とコントラストを織り成して、肉体からの束縛の逃れがたさを・あるいは内在さを示したり、あるいはこういう場合なら表出するという境界線を示したり、または未来の何か・この先の物語の何かに対する、いわゆる伏線的な、いわゆる含み的な、時間軸上でのある種の潜在がそこで顔を覗かしているとも言えるでしょう。
その最たるものは、言うまでもなく、鞠也に関してです。
ただしそこも、今は正中を触らなくても済むようにしています。



例えば2話ラスト。

ナレーション「ずっと先のことである」 かなこ「なに勝手にナレーションしてるの!」。

こういう風に、”今は”流すのです。もしそれが本当だとしたら、別に本当だとしてその「ずっと先」に残るし、とりあえず今は、嘘かどうかともかくで、流せる。保留化しているのです。マジにというか、「いま」「この場で」、真剣に考えなくてもよいように作られている。かといって全部嘘かと(ネタかと)いうとそうではない、のかもしれない。むしろ恐らく伏線的な機能を果たすでしょう。でもこの演出が、それらを薄め捲くってくれる。今はそこを観ないでもよいようにしてくれる。そしてそれこそが――現今にある症候をいくらでも楽しめる配慮となっている。

2話最初の方の、この場面。鞠也「泣いてらっしゃるの?かなこさん。ごめんなさいね、少し調子に乗りすぎたみたい」のところの、このマンガ表現。「謝り」という行動を作品内的に異物化して直裁に受け取らなくて済む。”ここでは(今はまだ)踏み込まない”というのは、話的にもそうですが、それをこういう表現面でも高めていて、それが結局、脱肉体化・脱性愛化にも繋がっている……というか、直裁には繋がっていないけれど、こうやってその部分が「保留状態」にしてあるから、視聴者としては、というかわたしとしては、それを享しむことができる。それは恐らく、かなこにとっても。

幕間



かなこの「ハナジ」について。彼女が、かわいい女の子やこれはすごいな妄想をしちゃった場合に、よくぶちまけてしまう、アレです。
果たして何故「ハナジ」なのか。赤面だけに留まらず、あるいは他の表現方法に落ち着かず、何故か、「ハナジ」。 というサインかと、最初は思ったのです。免罪符的な。承認的な。そこを「ハナジ」という、今時リアリズムとしてありえない記号を通すことで、ネタ化している。しかしもうちょっと考えていくと……何故ここで他の何でもなくわざわざ「ハナジ」にしているのか。

かなこの「ハナジ」は、彼女の性的機能の視覚的な代替でもあるでしょう。喩えが古いですが、シティーハンターもっこりとある意味同じ。かなこが興奮していますからあなたも興奮しても別に良いのですよ? 的な、サインとしての記号としては、意味は同じ。別に強い強制は持っていないけれど、強い(ある一点からの)承認は持っている。でも、ある意味では異なります。
これは彼女の性的機能を思わせる「記号」だということ、他の所に(赤面くらいでしか)そういうものが表出(モノローグ的ではなく、周りに見えるように)していないからこそ、より強化されているでしょう。そしてそれは、「ハナジ」という、一昔前のマンガやアニメで観られた、「これはエロいですよ」を表すサイン、なおかつ、”ハナジを出している者は「これはエロい」と思っていますよ”と表現する――つまり、肉体的性愛機能の代理であるのがより好ましい。ええ、ようやく色々と見えてきました。脱肉体化・脱性愛化という見地から観ると、「一昔前の」「性愛機能の代理を」、そう、それをまるで「ギャグのように」用いている(というより、現代でやるとギャグ風味が混じってしまう(少なくともリアリティ溢れる表現ではない))からこそ、ある意味を持つのです。彼岸の向こう側にいる自分の中のかつての自分とでもいうべき、かつてあった主体をもはや何の憧れも憂いも望みもなく捨て去っている……いえ、それどころか、ただの記号にしている。しかもそれはギャグじみたもの。つまり肉体的な・性愛的な機能を、身体を、ある意味、「ハナで嘲笑うことが出来る主体」というのが、ここに見て取れる主体なのです。つまり茶化しているのです。圧倒的に。現実の身体の性愛的機能の生々しさを、血を出すというさらに生々しいくせにギャグでしかないこの「ハナジ」が(一部なりとも)代替することにより、現実の身体のそれが、地に堕ちていく。しょせんギャグで代わりが勤まってしまう――ギャグに見えるものが現実の身体の性愛的機能の代わりである、という点で、かなこが置いてきたそれを茶化している(同時に、そっちの自分を無力化・無価値化している)のです。そこでは全てが埋められています。
ただしひとつだけ留意すべきは、やはりこれはギャグ的なもので――もっと遠大に見ると、かなこの人生においては、ハナジ出しちゃうこんな状態は恐らく今だけの、一時的なものでしかなくて――、かなこの、実体在る肉体の性愛に対する忌避のように、いつかは、問題として前景化する/あるいは、いわゆる乗り越えるべき対象・あるいは受け入れるべき対象のような形で、それと向き合うことにもなるでしょう。視聴者はそこまで連れてってもらえるかどうかは、わからないけれども。

結びに

要はでいえば、一言でいえば、纏めてしまえばこういうことです。
かなこ→鞠也の、かなこの心情。『男は嫌、実は男じゃん、女装じゃん、でも……でも、可愛ければアリ!』っていう、これこそが、女装的性愛、脱性愛化された、つまり脱肉体化された愛の極みじゃないか」と。
ここで見ているのは「可愛いかどうか(美少女かどうか)」で、それはもう、実は男とかまるでどうでもよくて、そりゃ心や性格やらも大事だけど――鞠也が一見するとメチャクチャなのに、それなのにかなこは(一見のヴェールの奥に隠された鞠也の真の心とか本心みたいなのを殆ど気にかけず・無視して)、そう殆ど一見だけで、ただただ「可愛いかどうか(美少女かどうか)」を、まずは最優先にする。

それは3話での、嫌がらせ・いじめられているときの「いじめられても相手が美少女なのでかなこさんはウハウハです」という説明。

4話ラストでの、かなこ「でも美少女の使用人にあしげにされるのってこれはこれで……」茉莉花「こちらも倒錯っぷりに、ますます磨きがかかってきたようです。そして間抜けっぷりも」、この一連。
これらが象徴的(かつ、かなこにとっては想像的)です。『まりあ†ほりっく』の世界に(今の所は)居ないので分かりませんが、可愛かったり美少女だったりしても、本当に嫌な奴だったり心底かなこを憎んでいる奴が相手なら異なる可能性はありますが、しかし。このように。たとえ自分に害をなすような相手でも、たとえ自分を苦しめたりする相手でも、たとえ本当は男だとしても、かなこは楽しめてしまう。相手の本当の(現実の)身体とか、肉体の生々しさとか、そういうものを「見ないで」、脱肉体・脱性愛されたそれを享しむ。それがかなこであり、また、ここまでの表現も、それと近い、脱肉体・脱性愛されたものを主に提示している。――ただし、かなこも表現も、全てが脱せられたものではなく、ところどころに、現実の肉体が顔を覗かせている。それがどうなるかは、わたしがこれを書いている第4話の時点ではもちろん分かりませんが、しかし、宙吊りにされた状態であるからこそ自由である今が楽しいように、その宙吊りがどこかに着地するであろう先々もまた、等しく、楽しみにしています。