「けいおん!」第1話 ふたつのリアリティと、繋ぎ合せるイメージ

えっと、昨日第一印象を書いたのですが、再視聴して、そこから構築しなおしました。なので一部被っている部分もありますが、昨日のよりは格段に出来は良いでしょう(自分で言うか)。 




キャラクターの表情や動きなどが非リアルなところ(上画像のような、デフォルメ化)が結構ありました。そもそも一番最初に見せられる唯の動き(携帯電話お手玉、転ぶ前のすべりを走るという動き)からして、非リアルな、デフォルメされたものだったので、キャラクターのリアリティの尺度に関する柔軟性は、強めに響いていたのではないでしょうか。しかしそれに対して背景は完全にリアルでしたね。崩されることはありませんでした。

たとえば同じく4コマ漫画原作で京アニ制作の『らき☆すた』なんかは、背景が画像のような非リアルな空間になることが多々ありましたが、今回の『けいおん!』において、そういったものは殆どありませんでした。キャラクターの空想を描く際(唯のクラウザーさん妄想とか怖い廊下妄想とか)や、画面転換時の効果など、描かれているイメージの主体が比較的明らかな場面において、多少そのようなものが描写される程度。そういったものを除けば、人物は崩れても、背景(=世界)は崩されていません。要約すると、ここでは、世界は<現実的>な硬質さを持つ不変の空間であるが、人物はその<現実>の鎖から外れた軟的な存在として描かれていました。

崩されるキャラクター。それは(ここにおける)<現実>から離れている描写の仕方(カメラだけに”現実を直視しない”というべきでしょうか)であり、それにより傷や痛みができるかぎり薄まっているともいえるでしょう。たとえば、入部を断る際に唯が涙を流しますが、


ここはデフォルメで描かれているがゆえに、つまりリアルな泣き顔からリアルを抜いているがゆえに、そこに(リアルに)刻まれているであろう深刻さが薄くなっています。この唯の泣き顔は確かに泣き顔だし、唯は泣いているわけだけれど、このデフォルメされた描写、この崩された泣き顔に、どこまで現実的な深刻さを見て取れるでしょうか。現実の泣き顔にある深刻さも、痛みも、傷も、つまりその感情・感傷も、顔のデフォルメと同時にデフォルメされていないか。例えばもし崩さないで描くよりも、このように崩したことにより、傷や痛みがそこから薄れている状態でわたしたちに提示されていないでしょうか? デフォルメされたキャラクターの泣き顔は、そこにある深刻さを(傷を、痛みを、現実を)薄くする。(作品世界内での統一性という意味で)非リアルな描き方は、そこにはべる感情すらも非リアル的なものとして濾過される。

たとえばギタリストの勘違いで名前を挙げられてあたふたするときの唯や、

律と澪の軽音楽部への動機の回想時、デフォルメ無しで嘘を語っておきながら、「その回想がウソだ」と言われたときにデフォルメになる、などもそうでしょう。
前者においては、先に書いた涙のときと同じ。現実的な深刻さがここからは剥離されている。後者は逆、マジに語ったウソをホントのウソにするために、デフォルメにして、マジっぽさを殺す。
背景(世界)はリアルな、崩れない現実であるのに対し、人物(キャラクター)は、非リアルな、崩す描き方がされる場合がある――しかもこのような、泣きや焦りなどの、深刻さを孕む場面で特に。ここにおいては、現実的な重みが避けられたものが、描出されているといえるでしょう。(もっともナイーブ(傷や痛みを得やすい)といえる澪だけが非リアル(デフォルメ)で描かれることがほぼなかった点は、あわせて指摘しておきたいところでしょう。)


さて、ここで話を一度変えまして。

「何かしなくちゃいけないような気はするんだけど……いったい何をすればいいんだろう」

唯のこと。
彼女は、謂うなればぽけーとした、ぽわぽわした、抜けたところのある人物・性格として描かれています。「テンポ悪くて使えないドジっ子」と、ダイレクトな言及までされて、強調されていました。そのぽわんとした感触からも、ふらふら&ふわふわとした足取りからも強調されていました。たとえばアバンの一連の描写(周囲(にゆっくり歩く学生が居るのにそれ)を見ない、急いでいてもマイペースな部分(猫にかまったりなど))などは、それの凝縮形な一面もあるでしょう。強調。これは原作既読の人も、未読の人も、そこが強調されている――結果、唯はこういう人物である、というのは感じたでしょう。
さて、そんな唯が部活をするのは何故か。なぜかというと、上に引用したところのような動機ですね。「何かしなくちゃいけないような気はするんだけど……いったい何をすればいいんだろう」。うわーお、あいまいだ。他にも、

「せっかく高校に入ったんだもん、なんかしたいよね」
「でも何したらいいか分かんないんだよー」

そんな感じで語られていました。つまり、何となく、何か新しいことをしたいんだけど、何というか、何をしたらいいのかなぁ、という感覚。入部届けの入部動機の欄も、同じ様なことが綴られています。「高校生になって何か新しい事を始めたいと思いました」
高校。高校生。その新しい環境で、何か新しいことをはじめる。はじめたいと思う。何故か――何故なのか、その定かなところは分かりません、恐らく唯自身にも分からないでしょう、しかし一番最初のカットがそれを想起させる――一番最初に映すことによって指針的な作用をもたらしている――のではないでしょうか。

中学生時代の友達。中学生時代の思い出。
これはもう過ぎ去ったもので、今はない。高校に入った今は、高校生になった今は、もうこれはなくて、何かしなくては、新しい事を始めなければ、ここでそういったものは得られない。この子たちと同じ写真に写ることは”ここでは”もうないけれど、何かすれば、新しい事を始めれば、また、この写真のような、世界に出会えるかもしれない。楽しい学校生活を象徴する一枚の写真に、辿り着けるかもしれない。
けれど、何をしていいか分からない。そりゃそうです。新しい友達、新しい学校生活、それを得たいと思っても、それを簡単に、ぽんぽんと得られるわけじゃない。楽しい学校生活を象徴するような仲間たちとの写真を、そんなほいほいと撮れるわけではない。何かしたい。何かすればそれを得られるかもしれない。けれど、何をしていいのか分からない。だから、たとえば、「でも何したらいいか分かんないんだよー」のセリフの直後に、かつてからの友達、あの写真からの友達である和ちゃん(眼鏡の子)に泣きついて、引っ付いたまま歩いていったりしてしまう。


しかし、そんな唯も、「何したらいいか分からない」の『何』の部分を見つけ出します。
最初は、殆ど適当ともいえるくらい、楽そうだから選びましたというくらいのきっかけ――唯曰く、「軽い気持ち」――であり、それだけに、(自分よりは遥かに)真剣な相手を見て、一度は断ろうとしたのですが、やはり、改めて、そこに、決める。餌付けされても、入ってくれないと潰れちゃうと言われても、ごろごろしてるだけでいいからと譲歩されても……いや、だからこそ。別にギターをやりたいわけではない、音楽を率先してやりたいわけではない、彼女が抱いたイメージは――幼稚園児がカスタネット叩いて先生に誉められていたあの絵のような――漠然とした、何となく楽しい空間であり、それを持ってここに入ろうというのは、本当に「軽い気持ち」。だからこそ、断ろうとした。けれど。
演奏を聴いて。


さて、そこで、話は戻って。
現実的なものとしての、不変、リアルな背景=世界と、いくらでも可変、不可変の重さと深刻さを剥奪できる非リアル可能な私とあなたという人物。後者は、その可変性は、いくらでも幻想を付与できます。重みも痛みも濾過されている。対し、前者は、現実の硬質さと不変さゆえ、”それ自体では何の幻想も持っていない”もの。崩せない世界だから、崩すことによって涙から痛みや傷を消してしまうことができない、つまり痛みも傷も真に向かってくるし向き合わなければならない、そんな硬質の檻に支配された<現実>。しかしそんな世界にも、幻想を見い出すことができます。主に私たちが。たとえば、映し込まれた亀の置物が、その歩みの遅さと部員の集らなさを掛けていたのは明白でしょう。それと同じ様に、唯が入部を決めた場面(演奏)、そこで挿入されたイメージ。「翼をください」をバックに、そのサビの部分(この大空に 翼を広げ 飛んでいきたいよ)で、挿入されたイメージ。部室。楽譜立て。空。水道。放課後の会話する学生達。廊下。そう、それは背景、<現実的>な部分。しかしここにおいて、挿入されるイメージは、それ。唯のセリフ「なんだかすっごく楽しそうでした」を想起させるイメージが<現実的>なもの、現在の唯と無関係のものばかりでありながらも、「楽しそう」な部活生活を、「楽しそう」な学校生活を、この現実的なイメージが幻想させる。逆に申した方がよいでしょう。部室が楽しいのか。楽譜立てが楽しいのか。空が楽しいのか。水道が楽しいのか。放課後の会話する学生達が楽しいのか。廊下が楽しいのか。そうではない。別にそれがそれだけで楽しい奴なんて殆どいないだろう。自分と関係のない・薄いそれらがただただ楽しいなんて、思わないだろう。そうではなくて、この演奏と、この演奏の輪に加わるということが、ここで挿入されるその現実的なイメージが楽しいものになるという幻想を抱かせてくれるということ。それが、「なんだかすっごく楽しそう」というイメージの内実を、作っている、あるいはその先を補っている。その「ただの」現実的なイメージが、この演奏とその輪によって「楽しいもの」に変わるのではないか、そういう幻想を抱けるということ。
その現実的な世界(リアルに描かれる背景・世界)に、私の幻想(非リアルに描かれることもある人物)を纏わせ、楽しく過ごすこともできかもしれない、というイメージ。
それはここにおいて撮られた、中学校卒業のときのとは違う、もうひとつの写真。

軽音部の写真。
新しい、高校での、楽しい学校生活を象徴するかもしれない一枚。何か新しいことをはじめる、そのことに辿り着いたかもしれない一枚。
この「写真」とあの「写真」という、現実的にキャラクターを切り取ったふたつの絵を、結び付ける幻想にもなるでしょう。

ぽわんとした描写の奥に隠れた厳しさを、硬い世界の表面にある軟らかさを、結び付けるイメージの演奏。これらを、その力みの無いゆるい感覚、言うなれば、唯のこれらのセリフや心情――「何かしなくちゃいけないような気はするんだけど……いったい何をすればいいんだろう」「なんだかすっごく楽しそうでした」――のように、具体的な方向性なく鳴り響く音の流れをくるっと纏めて出来上がった、その優しい「ゆるさ」と、奥に潜む厳しさ。そしてそれらを(私たちが)繋ぎ合せる「イメージ」。このようなイントロからはじまった『けいおん!』がどうなっていくのか、次回以降も楽しみです。