「けいおん!」第2話 繰り返しと獲得

この第2話は、教室で唯と和が会話しているところからはじまりました。

唯「今日どうしても部活に行かなきゃいけないんだ」
和「そうなんだ」
和(唯にも打ち込めるものができたのね。嬉しいような、悲しいような……)
唯「今日はムギちゃんおいしいお菓子持ってきてくれるんだぁ」
和「ギターやるんじゃないの」

(唯にも打ち込めるものができたのね。嬉しいような、悲しいような……)というモノローグが示すように、あの唯が、幼稚園のときも小学生のときも中学生になってもずっとボーっとしている姿を見せていて、そして和がそれを隣でずっと見てきた(多分)あの唯が、ボーっとしていることこの上なしのあの唯が、「今日どうしても部活に行かなきゃいけないんだ」ってほどに打ち込めるものを見つけている! これはなんという成長でしょう。ああしかし、私の知っている唯はどんどん消えていってしまうのね。嬉しいような、悲しいような。……と思ったらお菓子の為かよ! ギターやんないのかよ! 打ち込んでないじゃん! まあいつもの唯らしいけど!
みたいな感じでしょうか。大雑把に言うと。
和が唯に呆れる(呆れるってほど大仰なものではないですが)的な感じですね。これは、実は、多分、いつもです、とりあえず私たちが現時点で観測できる範囲(つまり第1話&第2話)では。和がこうやって教室で唯と会話する場面は5つありましたが、その全てにおいて和の反応は似たようなものでした。
・第1話:「こうやってニートができあがっていくのね」「部活やってないだけでニート!?」
・第1話:「軽い音楽って書くからきっと簡単なことしかやらないよ。口笛とか」「なにそのやる気のないクラブ」
・第1話:(こんな子つかまされて大丈夫かしら、軽音部)
そして先ほどあげた第2話冒頭の場面、それと、第2話Bパートあたまの場面。

和「バイト?」
唯「ギター買うために」
和(いつの間にこんな自立した子に……。嬉しいような、悲しいような……)
唯「軽音部のみんなも協力してくれるんだ」
和「え、みんなを巻き込んで!?」

同じ様なシチュエーションで、同じ様な帰結に結び付くような会話が、繰り返されているわけですね。
繰り返し。
さて、そこを軸に、今回の「けいおん!」を見ていきましょう。


繰り返しは、同時的には二つの要素からできているように見えて、遡及的にも二つの要素からできているように見えます。前者は、繰り返し自体が「わざと」なされているのか、それとも「どうしようもなく」なされているのか、という違い。換言すれば「狙って」繰り返していると、「性質的に」繰り返してしまうということの違いとでもいえましょうか。で、人間の性格による、結果的な繰り返し。これは狙ってなくても、性質的に生じてしまうことですね。唯が「ボーっと」生きてきたのは、別に狙っていたわけではなくて、彼女の性格的に「気付いたら」そうなっていた。わざとボーっと生きてきたわけではなく、気付いたらボーっと生きてきた。これは澪の恥ずかしがりなところにもいえるでしょう。アルバイト想像で澪は、対人的なものは全部できない(ティッシュ配りダメ、ファーストフード無理、配達できない、ファミレス不可能、コンビニありえない)と、その不可能を繰り返し想像するわけですが、これは別に澪が、働くのめんどくせーからムリーと繰り返しているのではなく、ガチで恥ずかしがりすぎてムリーと繰り返している、つまり彼女の性格的なものが、この不可能の繰り返しを生んでいるわけです。
先ほど前者の話をしましたので、今度は後者の話をしましょう。繰り返しというのはいつか終わるわけですが、終わりから見た際にその繰り返し自体は、「辿り着くための」繰り返しだったのか、あるいは「結果的に辿り着いた」繰り返しだったのか、その二つに見ることができるでしょう。たとえば「辿り着くための」繰り返しというのは、律がドラムを購入する際の値切り、「もう一声、もう一声」の繰り返しがそうだといえるでしょう。ある購入できる価格に辿り着くために、値切りという繰り返し行うわけです。逆に澪が何日も何日もベースの前に立ってこれを買うかどうか悩んでいるという繰り返しは、何日も悩むという手続きを踏まなければ購入できないからそうしたというより、その繰り返しの「結果的に」購入に辿り着いたといえるでしょう。悩んでたら値段が下がるわけでもないし、確かに悩んだ果てに決心というのは付くかもしれないけれど、ここで澪は高い買い物の決心付けるために戦略的に悩んでいたわけではないでしょう。欲しくてどうしようか迷いまくった末に、悩みまくるに自然と行き着いてしまった。とはいえ「辿り着くため」と「結果的に辿り着く」は、実は大差ない、というか、結果点から見れば分別しようがない部分も大きいです。辿り着く過程の内実がどんなものであれ、それがあったから今ここで辿り着いているという結果に至るためには必要という点では、両者は同じ。狙って繰り返すと、性格から必然的に繰り返す、その二つも、そういう意味では分別しようがないともいえるでしょう。澪が律みたいな性格だったら、悩んで悩みぬくより値下げという手段を講じていた可能性は高いですし、逆に律が澪みたいな性格でしたら、値下げなんて超怖くてとてもじゃないけどできない、一人で悩んで悩んで偶然でも跳躍することを選ぶでしょう。意図を決定するのは性格であり、そこを乗り越える何かでもない限りは、性格が変わらない以上意図も同じになる――つまり繰り返してしまうわけです。たとえば、わたしたちが生きることだって、あとから見れば、その差異も含めて「わたしという自分自身」を繰り返して生きている、と言うことができるでしょう。自身の性格が、自己の意図を決定していくわけですから、極端な話、自分一人だけで取り巻く環境が不変だったら、何も変わらない同じ選択を永劫に繰り返すこともありえるわけです。

とはいえ実際のところそうではなく、常に「環境」というものが変わっていきます。自分を取り巻く環境。人間関係だったり、立場だったり、あるいは境遇とか金銭とか、そういう自分が今居る場所の環境が、変化していくわけです。となると、それに伴い、自身の欲望や願望、あるいは自分に必要とされることや自分が必要とすることが、自分自身の性格が変わることはなくとも、変化していく。あー私対人関係とか苦手だなー、他人とかちょっと怖いよびびるよ、何より恥ずかしいよー、だからバイトなんて、特に他人と接するものなんて、ホント無理だよー、なんて思っていても、それを要求される局面はあるし、自分の性格だけに従うのだったら、いつものように「ムリ」の一言で終わらせたいそれも、この「環境」で生じた願望とか必要性を考えると、性格が要請する「ムリ」の一言では終わらせられないし、終わらせない場面もある。

やる前からムリだとかダメだとかばっか言ってる……
唯のギターを買う為なのに……
それは、軽音部の為でもあるのに……
乗り越えないと……自分を!
澪「わたし、なんでもやるよ!」

性格だけだったら、ムリームリーできないやらない、なんだけど、それじゃ叶わないしそれじゃ届かないことがある。だから、そこから抜け出す。乗り越える、この自分の性格を。性格から生じる繰り返しから抜けて、別の場所に向かおうというのです。


ラスト付近、ギターのフィルムを剥がされるところも、同じ様なニュアンスでしょう。作中で繰り返して描写はされていませんでしたが、

「まだ全然練習してないの?」「いやー、だってギターってきらきらぴかぴかしてるから、なんか触るのが怖くて」「鏡の前でポーズ取ったり、写真撮ったり、添い寝したりはしたんだけど」「弾けよ」

この一連のやりとりから、唯はギターを、練習のために触るのが怖くて(もったいなくて)、恐らく数日に渡り大事に大事に扱っていただけだった、というのが想像できるでしょう(チャルメラ程度でも弾けるようになっているのに「”まだ”全然練習してないの?」というセリフを澪が投げかけたところから、購入した日の翌日・翌々日ではなく、もう少し時間が経っているとも予想できます)。つまり、描かれてはいなかったけど、「練習よりもギター大事に大事に扱う」日々の繰り返しが存在していたと思われるわけで、そしてその日々は唯の性格的に必然の選択でもあったわけです。
しかしそこから、律の「フィルム剥がす」、その行動がきっかけで、変わっていく、抜け出していく。

「そうだよね。ギターって、やっぱり弾くものだよね。ただ大事にしてるだけじゃ、かわいそうだよね」
「ありがとう律っちゃん、私やる気でてきた!」

「唯が練習するきっかけになれば……」というセリフは、澪に突っ込まれたように勿論、後付ですけど、しかしこの行動は「結果的には」唯が練習するきっかけになりました。大事にするという選択に導かれるための環境(ギターきらきらぴかぴか)に一つ楔が打ち込まれたことにより、ここから別の選択が生まれたのです。これは先の澪の、「わたし、なんでもやるよ!」と類似しています。澪の場合も、たとえば澪が一人で、お金に問題が無かったら、そうはならなかった可能性が大きい。バイトとかムリだよやらないよ、と。でも、この「みんな」という、「軽音部」という環境の中では、それだけじゃダメ、それだけじゃムリ、それだけじゃ届かないものが生じてくるし、必要となってくるし、欲してしまう。翻れば、みんながいるから、軽音部だから、澪の中にそういう選択が生まれてきて、それを選択できたともいえるのです。


さて、その澪の「わたし、なんでもやるよ!」の場面。



ここにおいて、誰を映すよりもまず、この言葉を聞いた『律』の顔を映している、というのは考えるべきところでしょう。というのも、ご存知の通り律は澪のことを昔から知っている&親しくしていまして、こういう対人バイトを澪がムリなことを、他の二人よりも百も承知でして(この少し前の会話における律の表情や言葉をよく表れています。他の二人が「心配」なのに対し、律は「苦笑い」)、言い換えると、他の二人よりも遥かに、ここで澪が「ムリ」を繰り返すのを知っている。それなのに、澪の言葉は、「わたし、なんでもやるよ!」……澪のこの言葉が、どれだけ自分を乗り越えようとして発せられたものか分かるのは、他の二人よりも、ここで顔を写されている律に違いないでしょう。澪の性格により選択という繰り返しを、ずっと近くで見てきた律に。

「繰り返し」といえるような反復を見る際、外側からの眼と内側からの眼、そのふたつのパースペクティヴがまず存在します。上でいえば、澪が「対人ムリー」ってなるのは、澪にとっても律にとっても「いつもの」ことであって、ゆえにその「いつも」にこれまで触れてこなかった(つまり「繰り返しを共有してこなかった」)唯や紬は、澪や律が感じるのと同じことをここでは感じられてないかもしれない、というのが確固としてあるでしょう。内部からの眼でなければ、ここで澪が、そのセリフの字面以上の、どれだけの跳躍をはたしているのか、それが分からない(そしてだからこそ、ここでは律の顔を映している)。喩えるなら、ここにおいて、唯や紬は、澪の繰り返しの外側(あるいは、半歩だけ内側)から見ているような感じともいえるでしょう。それは序盤の、唯による軽音部メンバーの説明的なものにもいえます。「背が高くてかっこいい大人の女性って感じです」「おっとりぽわぽわ、かわいい人です」「元気いっぱいの、明るい女の子です」。この説明が正しいとか間違っているというのではなく――というか、これはそれぞれ、的を外してる部分もあれば、正確な部分もあるし、逆に過剰な部分もあるでしょう――そのこと自体が「外部的」であるということです。これで届いてる部分もあれば、届いていない部分もあるし、全然違うところに変に届いちゃったりもしている。
全て纏めて「つまり」でいいましょう。この軽音部はまだ「繰り返されていない」ということです。ないし、まだはじまったばかり。ひとつ補遺っとくと、繰り返しというのは全く同じことを繰り返すという意味ではありません。てゆうか全く同じというのは、どんなことにもありえませんしね。何かしらの差異は存在する。それを端に置いといて、一つの性質で区切られる単位、そこの差異もその性質に内在・潜在的である限りにおいてのその無分割的な反復を、繰り返しと述べることができましょう。
ここでやるアルバイトは交通量調査であったというのは、その辺にもかかってこれるでしょう。カウンターのボタンを押す――カウントという行為、それを延々と繰り返す。そうするとどうなるか。作中で言われてましたね。澪も律も、雲を数え職業病だと言い、唯は「こら」を無意識に数えてしまい、紬は返事の代わりにカウンターを押してしまう。「職業病」。これはつまり、繰り返すことで獲得しているということです。繰り返すことで、身体に刻まれることで、無意識下にそれが発動するかのように、獲得する。さて、これは、バンドの練習をちょっと思い出させます。僕はギターを学生の頃ちょっとやってたのですが(なのでギター以外はもしかすると違うかもしれませんが)、確かにコードを覚えるし、タブ譜も読む、覚える、そうしなきゃ弾けませんけど、弾く時って、逐一思い出したり考えたり読んだりしながら弾くんじゃなくて、指が勝手に覚えているような勢いで弾きますよね。ここの次はここを押さえる、その次はここ、その次はここ、その次はここ……というのが、最初は譜面見なきゃできないけれど、練習を繰り返すとどんどん覚えていって、遂には指が自然とそこを押さえる動きをしだしてくる。曲にもよるけど、細かいのなんかは、1秒間に指を押さえる箇所が何個も、それこそ10箇所以上変わり続けるのですから、いちいち意識の上ですべてを考えながらやっていたら、とても追っ付けません。だからこそ、練習を繰り返すことにより、それを獲得していく。繰り返すことで、それが獲得される。交通量調査のアルバイトも、そのカウントするという行為が、繰り返されることによって獲得された。

このアルバイト自体も、二日間行われたように一つの繰り返しなわけで、「職業病」のように身体的に獲得している部分があるわけですが、当然それだけではなくて。

1日目:「みんな、本当にありがとうねー! 私、ギター買ったら、毎日練習するねー!」
2日目:「一日でも早く練習して、みんなと一緒に演奏したいもん」
〃:(みんなの為にも、早く上手くならなきゃ)

この1日目と2日目の帰り際に唯が示したように、そもそものこの繰り返しに至った心的な経緯――律の言葉「軽音部の活動の一環」澪の言葉「軽音部の為でもある」――の獲得でもあるのです。身体的な獲得と、心的な獲得。自分一人の性質だけでは繰り返せないものの繰り返し、獲得できないものの獲得です。「軽音部の活動の一環」としての部分を、この2回ながらも繰り返されたアルバイトによって、心的に獲得している。これは唯のみにあらず、(程度の差こそあれ)全員が。「職業病」の部分は、全員が同じことを繰り返しやる(繰り返しを共有する)ことにより、全員が程度差こそあれ身体的に獲得していることを示していますが、それは各々の心的な部分にもいえてるでしょう。たとえば澪の克己や、ここで述べられてるような唯のギターを練習するという気持ちなどに表れている。これまでは、たとえば和と唯だったり、澪と律だったりと、この4人は違う時間を歩んできていて、繰り返しから見える性質・性質から見える繰り返しを共有してこなくて、それゆえに、それを見るとき、たとえば澪の決意の重さに唯や紬が律ほどには気付けないように、「外部的」な眼になってしまう部分が強くあったのだけれど、こうして、同じ時間を歩み、同じことをして、繰り返しから見える性質・性質から見える繰り返しを共有していくことによって、その眼は、その(軽音部なり、あるいは学校生活なり、もしくはこの4人という)性質の内部的なものになっていく。つまり、獲得していくのです、ここから繰り返される軽音部・この4人・その学校生活を活動。そしてそれは、澪の「わたし、なんでもやるよ!」という克己、唯の「そうだよね。ギターって、やっぱり弾くものだよね。ただ大事にしてるだけじゃ、かわいそうだよね」「ありがとう律っちゃん、私やる気でてきた!」のように、自分という性質だけでは繰り返してしまうものの跳躍――つまり、澪が言うよりに「自分自身を乗り越えること」にも繋がっている。


性質と繰り返し。環境による変化。跳躍。獲得。そして新たな繰り返し。
それは常に行われているわけです。たとえば、ラスト付近、律がギターのフィルムを剥がすことによって唯がガーンとショックを受ける場面。そこで紬はすかさずお菓子を出して、唯の機嫌を回復させようとします。

唯ちゃん、お菓子お菓子
そんなもので機嫌が……なおったーー!!

これは偶然でもたまたまでもなく、紬は分かっててやっています。お菓子をあげれば唯の機嫌はなおるんじゃないか多分、と。
というのもAパート、ギターの値段が高いということを知ってガッカリした唯に、紬がお菓子をあげて機嫌が回復した場面があるからです。

(部費で落ちませんか?落ちません)でガッカリ
紬「これ、おいしいわよ」
食べる。ガッカリが解消

この反応から、こういうときはこれをする――つまり一種の繰り返しですね、そういう対応法を紬は獲得していた。さらにいえば、第1話での唯のお菓子を食べた時の幸せそうっぷりなども、そこに補助線として引かれているでしょう。唯の性質というものと、それにぶつけるべき環境、そしてそれで生じる新たな変化。逆にいえば、お菓子をあげて機嫌回復がこのように繰り返されるということは、これは「ここにおける」(繰り返される)一つの性質である、と申し上げることもできるでしょう。そしてそれは、ほっといて生じたわけではない、このように、観測と行動、アプローチにより生じたものである。めっちゃ要約すると「日常」みたいなものです。軽音部の、この4人の日常みたいなもの。それは繰り返されるもので、むしろ繰り返されるから日常という言葉にその性質を回収し、一つの単位で区切ることができる(のですが、そこで区切るのはどうにも取り逃がす事物が多すぎるので、あくまでも日常みたいなもの)。そして、その先がある。繰り返しは、辿り着くためにしろ、結果的に辿り着くにしろ、その先のどっかに辿り着くかもしれない。少なくともこの場合は――軽音部の場合は、部活動ゆえに、卒業という区切りが必然的に訪れる。だからこそ、卒業までに武道館ライブ。だからこそ、ここでカウントされる数字――1065日――は、卒業までの数字。そしてそれはならびに、この繰り返しが続く最大期間であるといえるでしょう。


さて。軽音部に入った唯のように。自分自身の性質という繰り返しから抜けた先では、新たなものにしょっちゅう触れていくことになります。それはたとえば、はじめてアンプを通して音を鳴らしたときの衝撃であり、アンプのボリュームを下げずにコードを抜いたときの衝撃でもある。輝かしい良い衝撃もあるが、耳をつんざく悪い衝撃もある。そしてそれすらも、じきに普通に繰り返すこととなり獲得していく――アンプの音に眼を輝かせることはなくなるし、ボリューム下げずにコード引き抜くことも(たまにあっても)基本的には少なくなる――のだけれど。その新たな獲得も、最初の一歩がなければ起こらなかった。
それは、殆どなんとなくに近い勢いで入部届け書いて、なんだか楽しそうという理由で入部してと、偶然に近いものでも。

幼稚園のときも。
小学生のときも。
中学生になっても。
ずっとボーっと生きてきたけど。

それがなければ、高校生になっても、おそらく、ずっとボーっと生きていくことを繰り返していたでしょう。でも、そうじゃない。ここからは新たな場所。ずっとボーっと生きてきた先に辿り着いた新たな場所で、新たな繰り返しをし、新たな獲得をし、新たに辿り着き、そしてまた、違うところで、何かを繰り返す。そういう獲得性が、ここにはあり、そしてここからまた、何かを獲得していくのです。

高校生になった私は初めて。部活を始めました!