『けいおん!!』第2話について

憂×唯ファンとしては、あまりにもあからさまなサービスカットでもまんまと乗せられてしまいました……!うん、生きがい分を補充できた。

ギターを買うためにお金稼いだけど足りなくて値切ってムギに気を遣ってもらった結果安くなってなんとか買えた第1期2話に対応するように第2期2話、今回はギターがムギに気を遣わなくても高い値段で売れた結果得たお金をちょろまかそうとして失敗するお話。

そのちょろまかしのところが、もう何度見ても楽しめるくらい素晴らしかった。統計とってるわけじゃないので印象で言っちゃいますが、いや印象でも絶対だと言えそうなくらい極端に感じたのですが、今回はキャラクターのデフォルメ化が非常に多用されたように見えました。

それなのに、この「ちょろまかし」では、まず非デフォルメから入ります。誤魔化そうか(ちょろまかそうか)、正直に言おうかの狭間を、リアルなままの姿からギクシャクと入り、やがて眼が軽くデフォルメ的になったり、次に顔が軽くなったり、そして律の発言に対する反応が軽くなったりと、ところどころ一部分がなっていく。


律っちゃんの「1万円……」という発言への反応が、澪と梓は「やっちゃったー」的な感じで思いっきりデフォルメされているのに対し、現実に言ってしまった超当事者の律はマジ顔、なんかのバランスも素晴らしいっすね。


「デフォルメ化」というのは、基本的に、現実やマジを殺します



第1期第1話のときにも書きましたが(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090404/1238772132)、たとえば、デフォルメ化された泣き顔というのは、そこに本当は持っている悲しみや痛みを殺すことができます。リアルな泣き顔にある、深刻さも、痛みも、傷も―――つまりその感情・感傷も、顔のデフォルメ化と同時にデフォルメ化されている。この(↑)唯の泣き顔が(第1期第1話、軽音部入れないよ〜って泣き出しちゃうとこ)、もし写実的に描かれてたらどうだろうか、というのを想像していただけると早いでしょう。崩され、デフォルメ化された顔は、実際の唯がどうなのかはともかく、見る者にとっては、現実にある深刻さを剥離している。写実的に泣き顔を描いたときにあって然るべき傷・痛み・悲しみ・深刻さを隠蔽している。現実の深刻さもデフォルメ化されているわけです。
また、一気にネタに落とす――マジを殺す、というのもあるでしょう。「冗談だよ(ネタだよ)」ということを、文字通り顔で表現する。

けいおん!!』2話は、ここまでにデフォルメ化を多用して、マジを殺し痛みを殺し深刻さを殺してきたのに(だからこそ)、この「ちょろまかし」の場面は、デフォルメからは入らない。今までが散々殺されてたからこその対称性が生じる、差異が際立つ。お金を誤魔化すなんて、ネタには成り得ないのだと。


そして「買い取り証明書をちょうだい」というところ。ここを誤魔化したら、もう後には引けない(「実は……」とか言い出せない)し、謝るならもうここしかない(「実は……」と言う最後のチャンス)。さっきまでの、基本リアルな姿(=マジ)ながらデフォルメな姿(=ネタ)が僅か入っていた姿勢を、「本当」のものにしてしまうか(=マジにちょろめかすか)、それとも「嘘」のものにしてしまうか(=さっきまでを冗談に済ますか)、その分水嶺
ここではデフォルメ化されず、真剣な(マジな)表情で決断が下されます。
そのデフォルメのない、真剣な判断の分かれ目の果ての決断が、これ。


思わず律っちゃんが食べちゃった、というところで、おもいっきりのデフォルメ! キャラクターだけじゃなくて、背景=世界まで非リアル化されて、お花のエフェクトまで舞っちゃいます(ついでに音声の「くーえ、くーえ!」も、明らかな(音声的)デフォルメ表現)。

この「マジ」からの逃れ方。

しょーじき、見ていてここは耐えられなかったんですよ。この緊迫した空気に耐えられず、また「彼女たちが本当にちょろまかしてしまう」という悪事にも耐えられない。頼むからこの空気を終わらせてくれ、頼むからこの悪事をネタで終わらせてくれー、と願いながら見ていました。もう見てるこっちが限界だ。もう、デフォルメしてくれないと耐えられない。二重の意味で。
というところで、ギリギリのところで、ちゃんとデフォルメ化してくれるんですよね……。なんというズル優しさ。ここもリアルのままだったら、最後までマジのままだったら、とても見ていられないほど「深刻」だったのに、それを、最後の最後に思いっきりデフォルメ化して回避する。「買取証明書を出す」という、正直に話して「ごめんなさい」とか「冗談でした」とか言う最後のチャンスを、そうしないで思わず「食べてしまった=”本当にちょろまかそうとしてしまった”(結果としてちょろまかすことになってしまった)」という、視聴しているこっちからすれば洒落にならない(つか犯罪になる)瞬間における「深刻さ」を、キャラクターをデフォルメ化して、それどころか背景=世界までも別空間にして、回避した。
デフォルメしてくれないと見ているこちらが耐えられないようなところをちゃんとデフォルメしてくれた(してしまった)。
もちろんその後には「キレた目のさわちゃん」→「ちゃんとした土下座」→「でも泣き顔にはデフォルメ」という、ありとあらゆるフォローが入っています。お金をちょろまかすことが、許されざるということも、それに真剣に反省しているということも、でも泣き顔(痛み)は剥離されてるということも、きちんとフォローされている。ここまでのマジもネタも全部フォローされている。ズルくて優しい、このズル優しさ。


そもそも微妙にズル優しいんですよね。たとえば、今回冒頭(アバン)、部室のダンボールを片していたら、崩れてしまって(恐らく)律っちゃんのところに落ちてくる、なんてシーンがありましたが、しかし……

積み重なってるダンボールが落ちてくる悲惨な瞬間は映さない。これだけ映せば「ダンボールが崩れた」ってことは分かるけど、それがどう崩れて律っちゃんに当って彼女が可哀そうなことになったかは決して映さない。こういうズル優しさが垣間見えます。たとえばデフォルメ化に関しても、唯が泣くところは何回か映されていますが、そのほとんど全てがデフォルメ化された泣き顔ですしね。リアルな泣き顔だったらとてもじゃない、深刻で見てられないくらいなんだけど、デフォルメされた泣き顔はそこにある悲しみも傷も痛みもデフォルメ化していて、僕らは安全に見れる。言うなれば「安全に痛い」。
はじめからそういうものが存在しないわけではない。泣き顔も在るし、失敗や痛みも存在する。1期13話に代表されるように、上手く行かない失敗も存在するし、11話に代表されるように軋轢が生じる痛みも在る。泣き顔なんてしょっちゅう存在している。そして今回、お金をちょろまかすというように、(年相応の)せこさやずるがしこさが在ることも見えてきた。しかしそれの見せ方は、本当にどうしようもないことまでにはならなかったり(たとえば1期11話・13話のように)、本当にどうしようもないところをそもそも描かなかったり(たとえば1期9話、入部した梓が軽音部の姿勢にとまどうという話。迷って、悩んだ梓は、唯「最近あずにゃん来ないね」澪「もう来ないかもしれないな」というように、一時期、軽音部に来なくなるのですが、この第9話は”そこが語られません”。軽音部室に向かわないで、悩んだり迷ったりしているであろう梓をほぼ全く映さず*1、その期間をほぼ全く映さず、いきなり、数日後だか数週間後だかの「最近来ないね」という場面にまで時間が飛んでしまう=数日間だか数週間だかのあいだ悩んだり迷ったりしている梓が存在してない)、そしてこの第2話のように、本当にどうしようもないところを迂回して安全に見せるということ。そこでは痛みや傷、悲しみや悪意(というか、せこさ)がある程度濾過されている。
これはもちろん褒めてます。いい意味で、です。今まで何度か書いてきた、否定がなく、強い肯定もない、ということとも被りますが、<げんじつ!>なんてものに出会わないで済むならその方が遥かに良いのです。むしろ、映像として見せ付けられなくても、このように”隠蔽されている”ということに気づければ、それは最も理想的な<現実>との出会い方だろう。しかもデフォルメ化が全てを隠蔽するように、可愛さが全てを乗り越えるならもう文句の付けようもない。
究極のところ、可愛いから、痛みも深刻もエンターテイメントにできてるから生きるんです。画面の向こうの彼女らの痛みは、傷は、悲しみは、深刻は、――たとえば上に「(9話での)悩んでたあずにゃんの非存在」を記しましたが、そのように、描かれないからこそ際立ったりもする場合もあります。その時のあずにゃん、本当はたいして悩んでなかったかもしれないのに、描かれていないから逆に、すげー悩んで苦しんでたんだと勝手に想像できてしまうように。あるいは今回のように、デフォルメ化=ネタとして扱う論理が”ぎりぎりで”入っていたことが逆に、事態の深刻さを物語る。それは輝きも同じで、描かれないからこそ際立つ輝きもある。ということで、話の繋がりが分かりづらいですが、下に続きます。いや下から続いているというべきか。

*1:いちおう、ライブハウスに出向くシーンがありますが。