キーボードが「だいじょうぶ〜」と言ってる問題について

実際にキーボードは「だいじょうぶ〜」なんて言わないし、そのように聞くのも難しいけれど、その音色を唯は、「だいじょうぶ〜」と聞こえたと述べる。
この包み隠しっぷりが非常に面白いと思うんですよ。
第2話の感想(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20100416/1271348859)に書いたのですが、深刻さだったり、痛みや傷や悲しみだったり、そういうのを存在させながら、直接に映さない=前景に置かないことによって迂回させてるor隠蔽しているように思うのです。デフォルメや可愛さや萌えなどで覆い隠してる。

そもそも微妙にズル優しいんですよね。たとえば、第2話冒頭(アバン)、部室のダンボールを片していたら、崩れてしまって(恐らく)律っちゃんのところに落ちてくる、なんてシーンがありましたが、しかし……

積み重なってるダンボールが落ちてくる悲惨な瞬間は映さない。これだけ映せば「ダンボールが崩れた」ってことは分かるけど、それがどう崩れて律っちゃんにあたって彼女が可哀そうなことになったかは決して映さない。こういうズル優しさが垣間見えます。たとえばデフォルメ化に関しても、唯が泣くところは何回か映されていますが、そのほとんど全てがデフォルメ化された泣き顔ですしね。リアルな泣き顔だったらとてもじゃない、深刻で見てられないくらいなんだけど、デフォルメされた泣き顔はそこにある悲しみも傷も痛みもデフォルメ化している。
はじめからそういうものが存在しないわけではない。泣き顔も在るし、失敗や痛みも存在する。1期13話に代表されるように、上手く行かない失敗も存在するし、11話に代表されるように軋轢が生じる痛みも在る。泣き顔なんてしょっちゅう存在している。そして今回、お金をちょろまかすというように、(年相応の)せこさやずるがしこさが在ることも見えてきた。しかしそれの見せ方は、本当にどうしようもないことまでにはならなかったり(たとえば1期11話・13話のように)、本当にどうしようもないところをそもそも描かなかったり(たとえば1期9話、入部した梓が軽音部の姿勢にとまどうという話。迷って、悩んだ梓は、唯「最近あずにゃん来ないね」澪「もう来ないかもしれないな」というように、一時期、軽音部に来なくなるのですが、この第9話は”そこが語られません”。軽音部室に向かわないで、悩んだり迷ったりしているであろう梓をほぼ全く映さず*1、その期間をほぼ全く映さず、いきなり、数日後だか数週間後だかの「最近来ないね」という場面にまで時間が飛んでしまう=数日間だか数週間だかのあいだ悩んだり迷ったりしている梓が存在してない)、そしてこの第2話のように、本当にどうしようもないところを迂回して安全に見せるということ。そこでは痛みや傷、悲しみや悪意がある濾過されている。

前回書いたこと(ちょっとだけ文章いじりましたが)。
言うなれば「描写の暴力性」。本当は、50万ちょろまかすとか結構深刻なことだったり、入部直後の梓の悩みなんかももっと深刻だったり、唯がマジ泣きしてたりするんですけど、この描き方がそこら辺の「深刻さ」を隠蔽している。変わりに前景化するのが、可愛さだったり萌えだったり、あるいは軽音部の仲間内での雰囲気・仲良しさだったりそれぞれのキャラクターだったりという*2、言わば「けいおん!」のけいおん性で、それによってその辺が塗りつぶされる・上乗せされる。そんな所が楽しめると書いたわけです。

喩えるなら、キーボードの音色は、それぞれの音でしかなく、「だいじょうぶ〜」と言っているわけがなく、またそれを「だいじょうぶ〜」と言っているように聞くことも難しいのだけれど、唯が「「だいじょぶ」に聞こえた」ように、提示・添付されている。ここで重要なのは、キーボードの音色そのものは残ってるという点です。まるで「だいじょうぶ〜」に聞こえないキーボードの音色そのものは存在している。その上で、そこに「だいじょうぶ〜」という解釈を上乗せしている。

しかしその逆の見解もあって(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1154115.html*3、非常に面白いなぁと思いました。僕が深刻さが塗りつぶされるのが面白いというように、その逆、塗りつぶされた隙間から見えるモノが面白いというのも当然ある。

唯が「だいじょうぶ〜」だなんて言ってるけど、本当はただの音じゃないか、と。その、(唯の)解釈により隠されている方もまた面白く、価値も意味もある。


その両義性が、より面白いですね。

実際のところ、何が「現実か」というのは、主体をどこに見据えるかで大きく変わってくるでしょう。たとえば、キーボードの音はただの音だ、「だいじょうぶ〜」なんて言っていない、というのは一つの現実でしょう。また、俺には「だいじょうぶ〜」と聞こえない、というのも一つの現実。そして、唯には「だいじょうぶ〜」と聞こえた、というのも一つの現実なワケです。

アニメのカメラ*4はここにおけるひとつの主体と考えられて(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090122/1232557200)、ならばこの映像には、言うなればカメラに・ないし描き方によって、ある種の象徴的秩序が押し付けられている(もしくは提示・添付されている)ような状態でもあるかと思うのです。深刻さを隠蔽する、というのはつまりそういうことで、何かの出来事をある観点*5から描いているのだから、当然、その観点によって意味付けられ・価値付けられ・脚色されている。けいおんにはけいおんの、出来事に対する作品の認識の仕方=描かれ方というのがある。

50万円をちょろまかそうとした悪意(せこい、くらいのレベルかもしれませんが)がある。本心では新入部員が欲しいところもあるけれど気を遣って黙っている梓がいる。今回でいえば、集合写真で並ぶ順番無視して割り込んじゃうのもあんまりお行儀良くない(しかもそれを「良いクラス写真」なんて言っちゃうもんだから、余計に)ものではあるんですが、しかしそういったものの上に、たとえばキーボードの音が「だいじょうぶ〜」と聞こえたみたいな、「けいおん!」的な解釈を乗せて、それが画面に映し出されている。萌えや可愛さだったり、あるいは仲の良いところやそれぞれのキャラクターだったりといった「けいおん*6」が前景に出て、結果それらが隠蔽されるように後景に押しやられる(しかし無くなったのではなく存在している)、というのが面白いと思うんですよ。つか、この式があれば、もうどんな内容でも面白いんじゃないかと思えるくらいなんですけど。

これはまるで「欺瞞」みたいですよね。実際にお縄に捕まるほどじゃなくても、道徳的に悪いこととか、あんまり上手く行ってない部分とかあるんだけど、それを「けいおん!」の色で塗りつぶしている。でもそれはそれで一つの味でもあると思うんですよ。「代償」「生け贄」というと言葉が悪いですが、捨てるものがあれば残るものは相対的に・あるいは剰余享楽的に価値を持つ(たとえば軽音楽部なんだから部活に打ち込め・音楽を真面目にやれというまっとうな意見がありますけど、軽音楽部なのに部活に打ち込まず音楽を真面目にやらないというのが、そのまっとうさを代償にした価値を前提的に生み出してはいる)という面があるように、深刻さを後景化することで前景が前提的に価値を持つというのもあるんですけど、しかし考えてみれば、この欺瞞のようなものそのものが彼女たちの「現実」でもあるでしょう。キーボードが「だいじょうぶ〜」と喋るのが唯の現実であり、クラス写真取る時のあんまお行儀良くない態度も、それに気づかずに・それを省みずに「良いクラス写真」と思ってしまうのが彼女の現実であり、また、50万ちょろまかそうとしたのを、決定的な深刻さにならない程度の漂白するのが「けいおん!!」の現実であり、梓が折れるのを「梓は折れてるんですよ〜」という深刻さを見せておきながら、それ以上の深刻さを見せないのが「けいおん!!」の現実でもある。

そのけいおん色の裏に見える深刻なもの、”隠されているから”、そっちの深刻さの方が現実のように見えてしまいますけど、しかし少なくとも、唯たちにとっては、「けいおん!」にとっては、そっちだけが現実ではないでしょう(言うまでもなくそれは「現実的」ではありますが)。

深刻さを後景に追いやれば、萌えや可愛さ、キャラクターや放課後のティータイムが愉しめるし、逆に、それを生け贄にしてターンエンドすれば、今度は深刻さを愉しめる。たとえば「あずにゃん問題」にはぶっちゃけそういう面があるかと思います。梓が、折れるとか妥協するという部分も孕みながらも自分で決めたという決断=梓の現実、それを無視しなければ(その上でそこを作品における論理という問題の場に持ってこなければ)、それは問題化さえしない。


なんか長くなったのでしめますと、現実にキーボードが「だいじょうぶ〜」なんて喋ってはいない、けれども、唯にとってはキーボードが「だいじょうぶ〜」と音を鳴らしたのが現実であって、「けいおん!!」においては、キーボードが普通に音を鳴らしたのを唯が「だいじょうぶ〜」と感じた、というのを提示したのが現実である。それをどう愉しむかは、意外なほど、こちら側の裁量に委ねられているのではないでしょうか。

*1:いちおう、ライブハウスに出向くシーンがありますが。

*2:前回は萌えや可愛さしか思い当たらなかったけど、こういうところも当然あるなぁと思ったので前回から追加。

*3:ひとつだけフォローさせて頂きますと、引用された部分はそういう意味じゃなくてですね、あそこに書いた<現実>ってのはまさにラカン的な(ザ・リアル的な)意味ででして……って但し書きも無しでそんなもん分かるかというレベルですよね、すみません。なので改めさせていただきますと、アニメにおける描かれ方というのは、その時点でひとつの象徴的秩序の押し付け(あるいは提示・添付)のようなものだと思うのです。その奥に<現実>が垣間見えるようではありますが、しかし実際<現実>は見えていません。というか、この描かれ方の所為で、<現実的なモノ>としての境位が徹底的に迂回されてしまいます(というか、「描かれ方」というのが既に一つの象徴的秩序である以上、どう描こうが、<現実的なモノ>は垣間も見えず(<現実的なモノ>の身振りをした何か、にしかならない / <現実的なモノ>ではなく、<現実的なモノ>の身振りをした何かであるからこそ、そこに「実は裏では……」的な幻想を抱けるわけで(その時点で何かしらの象徴的秩序の中に回収されている))、もし垣間見えたとしても、それは”この象徴的秩序(における)”の方に回収されてしまうでしょう)。つまり、「<現実>との出会い方」――「出会い損ねている事実が普通に、私達が実生活で経験しているのと同じ様に隠蔽されている出会い方」が在る、ということです。ただ、この見解は、象徴的秩序こそを愉しむという僕の見解なので、確かに、逆の方を見るのであれば、見解も逆になるでしょう。

*4:どこをどう映して、どこをどう映さないか、といった人の(作り手の)判断込みで。

*5:仮に。「ある観点」だなどと限定的に指標付けられるものではないかもしれませんが。

*6:仮称。大それたネーミングでごめん。なんかいいのが思いつかなくて。