没文章置き


今週のらき☆すたの感想を一言でいうと、「ちょっ、おまwww」でした。
ちょっ、おまwww。なにこのパロディっぷり。

1話でのパロディネタはガイルくらい。
2話では太鼓の達人ハルヒとか、SHUFFLEとかケロロ軍曹とか出てきましたが、その「固有名詞」をキャラクターが口にすることはなく、作中の背景にこっそり出てる様な普通のパロディの枠内でした。
しかしこの3話。
キャラが金田一やコナン、ビアンカなどの「固有名詞」を口にしたり、クロマティやらぱにぽにを思いっきりパロッた絵を出してきたりと大盤振る舞い。金田一の件の時にかがみが「それは色々な意味でヤバイって」と口にしていましたが、これ見てた僕の心境もそれと同じ。このパロディは色々な意味でヤバイってww。まさに「ちょっ、おまwww」でした。


さて。
パロディネタというのは、もの凄く視聴者を意識して存在しています。
そもそも作品というのは、普通大なり小なり視聴者を意識して作っていると思われるのですが、パロディネタはその視聴者に対する意識が『絶対』です。視聴者がパロディと分かるかどうか、元ネタが分かるかどうかなんかも重要と言えば重要なんですが、それ以上になによりも、パロディネタというのは視聴者が存在していなければ存在していないのです。

例えば今回は、教室でドラクエⅤの話とか、クロ高ぱにぽにのパロディネタがありましたが、こなたやかがみ達はネタとして会話していたのではなく、普通の、日常の会話としてそのことを話していました。こなたやかがみ達、登場人物にとってはパロディネタはパロディネタではなく、普通の日常会話です。例えば僕らが現実にゲームの話とかしても、それはパロディとかネタとかなんでもなく、ただの会話ですよね。それと同じ。あれは視聴者がいて初めてパロディネタと成り得るのです。視聴者がパロディネタだと認識することによって、初めて『パロディネタ』に成り得るのです。
そしてもう一点。現実ではゲームやアニメの話をしても、それが『パロディネタ』になることはありえません。てゆうか、『パロディ』になることがありえないんですよね。パロディとはなにかしらの「作品」に対してのみ用いられる言葉で、現実には存在しないのです。
つまり、パロディというものは『視聴者がいる』『作品である』という二点の前提があって、初めてパロディと成り得るのです。


視聴者がいて初めてパロディネタがパロディネタに成り得るというのは、逆に言うと視聴者の事を凄く意識している、ということになります。
フィクションの物語って、『語られていない部分』が入る余地が大いにあります。たとえばある場面とある場面、その間に、作中では語られていなかったけどこんな場面があったんじゃないか―――とか、終了後の後日談に実はこういうのがあったんじゃないか―――とか。
そういう風に、作中で『語られていない部分』を考えることが出来ます。それは別にパロディ作品でも同じ。らき☆すただろうと、絶望先生だろうと太蔵だろうと、他の作品と同じくです。
しかしそういうパロディ色の強い作品というのは、パロディ色の弱い作品に比べると、その『語られていない部分』を見出す・想像するのが非常に難しくなります。それは『世界観』の問題です。

世界観というのは言葉自体は不明瞭な感じのものですけど、要はその作品『世界』そのものです。
どんな作品でも作者がいて、その人(人たち)が作っている訳ですが。彼らが作り出す作品には、色々な決まりやルールがあって、様々なキャラクターがいて、多種多様な道具や要素があります。その全てが作り出す『作品世界』、それが世界観な訳です。
もちろんその世界の全てを認識することは不可能なんですが、その辺は別に現実の世界だって同じなんだから気にする必要は無いっぽいです。一応『観』付けてる訳だし。

世界観というのは、作者が作り出した作品世界のことです。これはまた『観』が付いている通り、見た人それぞれによって異なります。人それぞれ別人なのですから、これは仕様がないところでしょう。とはいえ大元となる作品自体は一つしか存在しないので、全く話が通じなくなるほどの大きな違いは滅多に生まれません。実際の所は大抵、些細な違いです。


さて。
前述したとおり、世界観を作り出しているのは作品そのものです。では作品そのものを作り出しているのはナニか?それは作者です。
ここで重要なのは、作品に作者の『作為・作意』が表出しているかどうかです。
作品が世界観を作り出している、つまり私達は作品からの情報でその作品の世界を構築しているのですが、そこに作者の作為などが入ると、その世界観の構築が非常に難しくなるのです。
作品世界の(自己の中の)構築は、キャラクターも世界も設定も道具などなど、作品内に描かれたものから推測して行なっています。これは作中で示されたモノと、そこから導かれるものが全てで構築されているのですが。作者の作為が入り込むと、それが途端に難しくなるのです。つまり、世界構築に『作者』という作品外に存在する者のことも考慮しなければならなくなるからです(しかも作品内から読み取れるその情報が少なすぎる)。
作品の世界は作者が作るものなのですが、作者の作為が見て取れると、その『世界』の把握が限りなく難しいものになってしまうのです。

パロディネタというのは、基本的に作者の『作為』が表に出やすいモノであります。
作為が見えてくると、世界観の構築が難しくなる。そうなると、視聴者の入り込む余地が無くなるのです。 が、逆に。パロディネタだからこその、視聴者の入り込む余地が生まれてくる。今回、画面見ながら「おいおいww」とかツッコミされた方いたら、多分きっとそれが『視聴者の入り込む余地』です。
受け手がいなくても勝手に話を回すことが出来る作品。そこを想像で埋める、という『入り込む余地』がある通常の作品。対してパロディネタ作品は、受け手がいないと(パロディ部分は)存在すら出来ない。つまり受け手がいて初めて『パロディ』となりえる。
『パロディ』は『作品』にしか存在しないものであって、『作品』は『作品内』には存在しない、受け手がいなければ作品にすらならない―――逆に言うと、『受け手』という存在がいて、初めて作品は『作品』になりえるのです。
パロディネタは、受け手に認識されて初めて存在出来る。
つまり見る人がいて、初めてネタが『生まれる』のです。パロディネタは、その面白さ(ネタがわかるかどうか、とか)もその存在自体も、非常に受け手に依存しているのです。





ええと、勘違い無いように言っておくと、ここまでは『らき☆すた』の話じゃありません(えーこんなに長いのにー)。
ここからが『らき☆すた』の話でして。



らきすたのビックリな所は、先にも書きましたが1話は殆どパロディネタなし、2話でボチボチ、3話でドカンッな所です。
パロディネタは、全部ゲームとかアニメとか漫画のネタでした。
主人公こなたは、大のゲームやアニメ・漫画好き。

つまり、ゲームやアニメや漫画のパロディネタって、こなたがゲームやアニメや漫画好きなんだから当然というか必然。てゆうか、こなたがこういう趣味なんだから、普通の会話しててそれちょっと誇張したらパロディネタになっただけじゃん。


と錯覚させられるような所が、『らき☆すた』の究極な所。