断絶構造らき☆すた

メタ断絶。


こなたと、他キャラクターとの断絶。
それと似ている構造の、視聴者と作品との断絶。

ああ、いや。

現実にある作品からのパロディネタとか、
らっきー☆ちゃんねる」がお便り読んだりお便り募集したりしていることを考えると、もっとキチンとした断絶か。
アニメ作品と視聴者なんてハナから断絶されてるけど、普段それを『断絶』だとは思わない。
なにせハナから思いっきり断絶されてるんだから、『繋がっている』と思わない以上、そこに『断絶』を感じない訳です。つまり、そういうことを意識しないってことです。
作品は作品として、物語を楽しんだりギャグで笑ったり感動で涙したりする。そこにあるのはあくまで『作品』であって(つまり作品であるからこそ、そういう感情が喚起される)、フィクション無機物な作品に対して普通はわざわざ『繋がってる』とか『断絶』とか思わない訳です。
それを『らき☆すた』は、『繋がってる』とか『断絶』とかを思わせるくらいには、コッチに歩み寄ってしまってる。
そういうことを考えることが出来る、土俵に立っているということです。


作品(こなたとかかがみが出てるアレ)と、「らっきー☆ちゃんねる」も妙に断絶している。☆ちゃんねるの方からは言及があったりするのに、作中から☆ちゃんねるには言及がない。

エンディングはカラオケで、オープニングは踊りとチアガール。OPはともかく、EDには何か意味が見出せるかもしれない。

原作とアニメとの断絶とか、キャラクターにおける現実と幻想の断絶とか、そういうのもちょこっと出てるかもしれない。『断絶』を感じさせるくらいの空気は。

あ、監督交代劇で、製作側とそれの真意が読めない、それを見た者との断絶とか。
さらに監督交代での色んな憶測から生じる反応側同士の断絶とか。

どこまでも膨らむ断絶。ディスコミュニケーション螺旋回廊。うわ、考えただけで吐き気がしてくる。


視聴者と作品の垣根を曖昧にする、とか当初は思ってたけど、その方向性は逆に視聴者と作品との垣根を明確にするものだったのかも。
う〜ん、まだまだ分からんね。だからこそ面白い。