京アニkanonラストの「きせきの欠片」


「きせき」が奇跡にも軌跡にも聞こえるというアレ。


あそこで起きた「奇跡」は、突然降って湧いたように起きた奇跡ではなく、それまでの、例えばあゆと祐一との出会い、木からの落下、祐一の記憶封じ込め、7年ぶりの再会、その果てて全てを思い出す祐一、そして全てを受け入れる祐一 ―――という「軌跡」の果ての「奇跡」であり、つまりはこの「軌跡」こそが「奇跡」ではないか、というお話し。らき☆すた15話で言う「こうやって出会えて一緒にいることって奇跡かもー」と同じ。確率論でいえば、出会い、この歩み、その軌跡の全ては、「奇跡」みたいなものである。


と、放送時は何かモヤモヤしてたものが、今考えたら2秒で分かってしまったのですが、これってつまり、時間が経って自分の中の「kanon」という物語を『軌跡』として見ることが出来るようになったんだなー、と思う。


「奇跡の物語」みたいに称される「kanon」。
あなたの中のkanonを紐解いてみて。その軌跡は、どのように見えますか?という問の意味を持つ、言葉でもあったのかな、とか思わなくもないです。



※ちなみに、「きせき」を「鬼籍」にも取って、祐一がもし7年振りに帰ってこなかったら死んでしまっていたであろうあゆ、という謂わばパラレルワールドを思い浮かべて鬼籍の欠片でもあり、だからこそよりこの物語の「軌跡」が「奇跡」という意味を成す……みたいなのも当て嵌まるけど、流石にこんなことは考えてないよなーと思うので却下。