語るべき言葉を持つという事は、所詮、語るべき対象になってしまうということで、それは自分の中でその対象物に決着を付けてしまうことでもあると思う。
ゲームのくらにゃどをやった時は、自分は、何も考えなかった。考察も思考もしなかった。深くつきつめたいとは思わなかった。いやむしろ、何も考えたくはなかった。自分の中の感情にも、作品に対しても、何一つ答えを出したくはなかった。
答えを出すこと。言葉になっていないものを、言葉にして認識すること。それは、その瞬間に存在していた言葉になっていない思いや感情を、言葉に換言してしまうということだ。自分と作品とその間にあるものを見つめ、認識してしまうことに、ある種の恐れを抱いた。そうしてしまうと、このゲームをやって得たくだらない感情を見つめて、そこに答えを出してしまい、そして、その価値を決定付けることになってしまうからだ。
そうはしたくなかった。そうはせずに、ただただ、このどうでもいい感情の心地よさを、後ろめたくも大事にしようと全て唾棄した。ただただ、このゲームが自分に与えてくれたものがあまりにも愛おしくて、その感慨にたゆたっていたいと思ってしまっていた。
まあつまり、今度(再プレイ)は思考とか考察しながらやろうかなって。下世話でもいい。