くらにゃーど7話、だいにいんしょっ

渚、さすがにウザスww(率直な感想)


うーーーん。今回だけだと、やはり如何とも言いがたい。
ちょっと整理。「風子が目覚める」ということに、あまり疑いを持っていない朋也&渚。まあ目の前にその本人がいるんですから、そう思うのも当然といえば当然ですけどね。彼らの風子に対する行動の理由は、渚としては先に言っていた「手伝ってあげたい」であり(だから今回、それに少しズレてきていてウザスだったのですが)、朋也は……なんだろうな。手伝うというか、ほっとけない(そもそも最初の接点は、手の怪我を見てナイフを取り上げる(つまり放っておけない)からですし)という気持ち、今回語っていたように「似ている部分がある」というのもそれに然り。
で、行動もそれに沿っている。あくまで手伝う、一緒に居る、ならびに一緒に遊ぶ・ダベるくらいの感覚で、それ以上の行動は取らない。唯一取った、飛び越えたといえるのは、公子さんに風子の思いを代弁して伝えた今回冒頭くらいでしょう。
で、今回明かされた事実で、「風子が目覚める」に揺らぎが生じる。つか、次回から生じる。うむ、次回以降の行動が楽しみでもある。


入学式の日、学校へと向かう風子。桜が散る中、ゆるやかな坂道を、光で見えない先の方へ。第1話アバンの坂道と軽く対比させると良い感じ、かも。
今回は、「友達」の中身を埋めるお話か。5話で「友達ですよ」と言葉にして表してしまった(授業シーンのアレ)あのアニメオリジナルの台詞がどう効いてくるのか。


冒頭の姉と妹の創立者祭は、原作の方が良すぎるので死にそう。原作ではあそこ、朋也が喋っているところで、風子の姿を全く映さないんですが(つうかあのシーン、風子がほんのちょっとしか画面に表れない)。「見れない公子さん」に「見てない朋也」が、「(公子さん的にも画面的にも朋也の言葉の中にも)そこにいない風子」の思いを伝える。しかも、朋也自身の感情はなるべく排除したまま。

「そうです、先生、結婚してください」
「先生の幸せが、自分の幸せだって…」
「先生のことが大好きなふぅちゃんは…」
「ぜったいに、そう思ってるはずですっ…」
「ふぅちゃん、絶対にそう思ってますっ…」
よく言ってくれた、古河。泣かずに。(FROM:原作)
渚もそう。何故「泣かずに」がここでつくのかというと、泣いてしまったらそれはもう風子の思いではなくなってしまうからです。この結果が分かっていた風子は、ここでは泣かない。ここで古河が泣きたくなっているのは、古河自身の感情。それを表に出してしまったら、『風子の思い』そのものを公子さんに伝えることでは無くなってしまう。
だから、自分の感情――泣きたいという感情――を我慢していることが、姉には絶対届かない風子の思いを代わりに伝える事が出来ることに繋がるから、ここではそれが讃えられているのです。


うんと、アニメにそういう要素が考慮されてなかったわけじゃないけど、原作の方が上手かったよな、とは思った。