CLANNADフルボイス買った

CLANNAD」に対しあるひとつの解釈を思いつき、それは(以下ネタバレなので伏字にしましょう)『町』をこのゲーム(このお話の舞台となる世界&この物語の脚本)とみなし(この解釈であればあまりにも説明不足なこのゲーム上で用いられる『町』という言葉、それの説明が可能になる)、『町の意思』はこのゲームや脚本の意思のようなものであり(『町が願いを叶える』だのというあまりにも突拍子も無くかつ絶対のものとして登場したこの『町の意思』という定義、それの理解が可能になる)、『町もそこに住まう人の幸せを願う』というのは『ゲーム(もしくは脚本・物語)もそこに居るキャラクターの幸せを願う』という意味になり、すなわち作中内のキャラクターは渚の言葉の通り「だんご大家族」、だんご=かたまりを意味することとなる。団子という字面どおり『団の子』であり、それがこのCLANNAD、ひいてはそれを作り出した者達『団』の『子』を意味し、それが大家族として、ひとつの円環・塊として存在している(最後のセンテンスは作品から半歩飛び出していて説得力無いので、後でなんとか脚色したい)。
『この町の願いが叶う場所』はゲームのタイトル場面にあり、あの「スタート」や「ロード」といった文章が踊る、わたしたちプレイヤーとゲームの世界とを繋ぐ場所にあり、実際に、この町の住人の願いを叶えるとしたらそこでスタートを押しこの世界に繋がらなくては不可能で(プレイヤーが始めない限りゲームの世界も始まらない)、その意味ではあの場所は願いを叶えているであろう。


『町』に関してはおおよそ以上のような骨組みで解釈するのですが、『幻想世界』『幻想世界の少女・僕』『光の玉』『団子と町と汐(特に光坂)』に関しては未だ中途半端な状態。
『光の玉がタイトル画面にあること』・『少女がそのタイトル画面に"ゲーム終了時に"現れること』、この2点に関する解釈で一時的に詰まっている次第でございます。

なお、key作品の前身である『ONE』という作品に対し、「えいえんはあるよ、ここにあるよ」という言葉が比喩でもなんでもなく、まさに"ここ"――このモニターの中、ゲームディスクのことであり、そりゃデータは永遠だわというオチを迎えた上で、「こんな永遠なんていらなかった」と作中の主人公が、思い出を反芻するだけで生きていける永遠を否定し、じゃあプレイヤーであるあなたはどうする?思い出を反芻するように何回もプレイして永遠の中に埋没するかね? と、僕はこういう解釈をして、そして『kanon』以降も似たような解釈ができることから、『CLANNAD』にもこの類のものがあるのではないかと考えているのですが、それは恐らく『アフター2周目(渚が死なない話)』。
『アフター2周目(渚が死なない話)』というのは、まさに一回性を馬鹿にした話で、ゆえにそこにこそ現実との差異が色濃く残り、この『突き放し』――一度は一回限りの道を歩んでおきながら、そこを放棄しゲーム的な世界に陥る――こそが、朋也が経験する別れや落胆・失望からの立ち直りと同じ構図を、プレイヤーに提供するのではないかと考える。2周目の先を、見せてくれないわけですし。そこでさよならなわけですし。
最終的には、「なんか知らんけど渚助かった!すごい!物語世界はすごい!」みたいな解釈が最大公約数的に見た人の心に受け入れられるのかもしれない。
CLANNADの世界観の穴』であり、その穴こそが、そこにだけ大きな穴があるという事実こそが、現実との差異を浮き彫りにしているのかもしれない。かも。


なんだこれ。宇宙人の哲学書か?


そういうわけで、実は「CLANNAD」を全然覚えてない状態での思考なので、せめて考察と呼べるレベルにするために再プレイをしようと思い至り、折角だからフルボイス版を買ってきたわけなのですが、これで『PC版(最初の)』『PS2版』に続き三枚目の所有と相成りました。
考えたら『kanon』も『AIR』もPC・ドリームキャストPS2と三枚持っていまして。だから何だと言われても困るのですが、まあ、折角ですから、と。