クラナド22話、第一印象

やっぱあれだ、昨日書いたアレは無かった事にしたい。……うん、してもいいよね? できるかなぁ…。


良かったです。いやもう、ホント、当たり前みたいな事を言ってますけど。うん、良かった。


朋也が、渚に対して「お前はお前だ」みたいなことを言ってました(Aパート終わりのトコ)。
「お前はお前」……当然ながら、人は誰しもが、「自分は自分」、です。
ただそれは、二つの意味があります。ここでの朋也の台詞と、渚の心情という二つの違い。
朋也が言ってる「お前はお前」は、
お前は、おっさんや早苗さんとは違うし、彼らの何らかに対して責を負う必要は決して無い、今ここで演劇をやる為に頑張ってきて、今ここでその目標が目の前にある、『今ここにいる古河渚という人間』だ――古河渚は、"今ここにいる古河渚という人間"、それ以外のものを背負う必要は無い――ということなのですが。
渚の中にある「お前はお前」――つまり「自分は自分」は、
私は、お父さんやお母さんとは違う人間で、彼らの何らかに対して責を負う必要は決して無いのだけれど、私が今ここに居るのは、お父さんやお母さんが夢を諦め私と一緒に居ることにしたからであって、私が今目標の目の前に立っているのは、お父さんやお母さんが目標を諦め私と一緒に居てくれたからであって、今ここにいる古河渚という人間は、今ここに見えるものだけでできているのではなく、過去があってここに居る人間であるから――古河渚は、"今ここにいる古河渚という人間"、それを作り出したものも背負うべきである――ということになるのでしょう。
点で見ている朋也と、線で見ている渚。だから朋也の説得は届かない。


過去――いや、ただの過去ではありません。その過去は今の自分の形成に大きな部分を占めていると自分で自覚しています。ただの過去ではなく、今と同じものです。自分を形作っているものの一つ。今の自分を作り出しているもの。
今まではその存在に気付いていなかった。しかし、今はもう気付いてしまった。
一部分とはいえ、自分を作りだしているものが、自分の大切な人を苦しめたのではないか、重荷になってしまったのではないか。
気付いてしまったのなら、向き合わなければならない。自分を形成している一要素で、しかも今現在にそれが大きくかかっているのだから、それを解決させないと(自分の中でそれが"何なのか"を決定しないと)決して前には薦めない。その過去に対し、いかなる責を負うべきか。いかなる義務を果たすべきか。その過去は、一体、自分の中での何なのか。


その答えを出すのが、おっさん――その過去の当事者。
簡単な解決に見えるかもしれませんが、これでいいのです。この解等ならば、絶対に簡単になるものなのですから。
かくして渚は、自分のある過去を知り、その意味を判別し、それが"自分にとって何なのか"を決定して――自分の構成要素、自分の中に内包されているものをまた一つ知り、つまり、『自分が何なのか』を、より知ったのです。



さて、「なんで杏・椋・ことみが演劇部にいて活動しまくってん?」みたいな、水を差すようなことを書いてしまったので(昨日ね)、責任持って解釈します。あくまで解釈です。真実は一つでも、解釈は無限です。
これで鮮明になるのは個々人の違いと、それすらも唾棄してしまえること、ですね。
個々人の違い。「演劇に臨む動機が個々人異なる」みたいなことを書きましたが、これは実際にそう。さらに動機だけに留まらず、そこに何を見ているのか・何を託しているのかというのも異なります。朋也が「落ちこぼれだった俺や春原の夢でもある!(超うろ覚え)」みたいなことを渚に言ってましたが、こういう思いを朋也・春原が渚に仮託していても、杏・椋・ことみは、このような思いを全く仮託していない(しているわけがない)のです。臨む姿勢も望む姿勢も異なっている。
とはいえ、その様な違いは、全く表面化することはありません。各々臨む姿勢も望むモノも異なっていても、そこに不和が生じたり、そこに歪みを感じたりすることは全く無い。その差異は、意識される隙もなく、渚の目標と今やっている行動と彼らの空間に、あっという間に吸収されている。この差異は何の枷にもならず、みなで協力して、劇を成し遂げる。
何も歪みは生じず、違和感すら覚えず、みなで舞台挨拶をし、みなで打ち上げをする。


この構図が。
渚が落胆してから、再び劇を始めるまでの、
渚のことを(今の渚の心情を)全然理解しておらず的はずれなアドバイスや効果のない説得ばかりを言う朋也と、朋也の言葉に心を向けず自身の過去の意味を後ろ向きに幽閉して父親の思いを虚像的に捏造する渚と、そして言葉をかけ渚に決定をさせるおっさん、
この3人の構図と似ている。渚に(ならびにこの劇を今しようとしている渚に)向ける思いや感情(渚の場合は自分自身に向ける思いや感情)がそれぞれ異なっているにも関わらず、それがはっきりと効果を表す。
それぞれが渚(ならびにこの劇を今しようとしている渚)にどういう思いを・感情を抱いているかという違いを越えて言葉が届き、そもそもそれぞれ別々の人間、別々の「自分は自分」を持っていて、それに則って生きて思いを発しているのに、その違いを超えて届くことができる。

人はみな違うし、自分が自分をどう見ているかも他人が自分をどう見ているのかも、その逆も、全部全部違うのだけど。その違いを、越える事ができる。みなで協力し、みなで舞台挨拶をし、みなで打ち上げをするように。違いを越え、他者の思いも自分に内包して、前へと、その人(の思い)も一緒に連れて歩いていける。


はぁー。何気に時間かかった。もう一回見よ。