CLANNAD AFTER STORY 3話 だいいちいんしょー

2話の感想を書いていなかったですが、えっと、注目点はまず第2話にあります。
春原が進路をどうこう言うところですね。
適当に卒業して、適当に就職する。そして適当に生きていく。
ここでいう適当というのは、好き勝手ざっくばらんな遣り方としての適当というより、目的が五里霧中なことによる必然的な適当(明確性がゼロなので、「適当」が最適化、「適当」以外の選択肢のある筈がない)みたいなニュアンスであり、つまりでいうと、「適当」が春原の信念だとかそういうわけじゃなくて、今はやることとかやりたいこととか見つかってないから、「適当」という惰性に乗るしかないみたいな感じなんだと思いますが、だからこそ、残り少なくなった学校生活に対する焦りとか、憤りとか、形にもなってない鬱屈とか未練とか、そういうのが感じられますね。春原から。
つまりは「いま、ここ」――失われゆくこの瞬間という一回性を意識している指向とでも言うべきでしょうか。
彼の、芽衣に対する言動とか、公園子供スルーとか、そういった節々は、その辺の意識から来てるのかなぁと思いました。
残り少ない学校生活という、「いまこの瞬間にしかできない」ことですね、そこに重きを置いているように見受けられます(朋也が悪ノリにすぎるのも、その辺から)。
第2話冒頭の春原と朋也のやり取り――春原の言動が、”こういう場面にしては珍しく”、怒ったり呆れかえったり、というのが如実に表れているもので、ちょっと以外だったのですが、多分その辺の含みが分有されてるのかも。かもというか、かな、と思った。




春原「昼飯は今日も学食?」
朋也「お前な、たった今着たところだろ。ちゃんと前振りしてから声掛けろ。じゃないと調子が狂う」
(憤る春原)
春原「わかったよ。じゃあやり直すな」
春原「や、岡崎こんにちは。昼飯は今日も学食?」
朋也「さわやかだな」
朋也「お前にしてはさわやかすぎる。キャラが違いすぎて、引いてしまった」
春原「じゃあどうすればいいんだよ」
朋也「常に語尾に、『それと便座カバー』と付けろ。そうすればさわやかさが薄れて、お前らしくなる」
春原「……わかったよ。そのうち気が向いたらやってやる」
(呆れる春原)

凄いな、このやり取りだけ見ると春原の方がまるで常識人だw

上述のやり取りから、朋也が、春原を「いつもの春原」に誘導しようとしているのが見て取れると思います。いつもどおりアホなこと云って、ノットさわやかな春原でいろよ、という誘導性。逆に春原は、そこ(いつものに誘導)に対して憤ったり呆れたりしています。単式化すると、春原はノットいつもの春原を望んでいるように見受けられますね。
そう思う源泉(これは朋也にも言えることかも)が何処に有るかと言うと、このお話の文脈的には、やはりその「進路」、それと「現在(学校生活)の残り少なさ」にあるのではないかと、思うのです。




それはそうと、今回の田村ゆかり芽衣の声)はゴッド懸かってるんじゃないか。マジパネェ。
今回の、というか、今回のお話に合いすぎというべきか、芽衣に合いすぎというべきか。
田村ゆかりの声は、一言でいうと「よそいき的」(弁別特徴が弱い、あるいは常に(田村ゆかりとして)一定的である)な透明さがあって――というと大胆すぎるので補足すると。大きく分けると、今回の話で言えば、普段の会話時と、ラストの、朋也とデートしている場面を春原に目撃された所、(あくまでもおおまかに分けると)その2パターンがあって、それぞれが非連続的(独立的)――、それ故に本心が読みづらいキャラクターに非常に合っている(芽衣みたいに敬語的な口調だとさらに倍)。
本心が読みづらいというか、「本心を”何処まで”言葉に表出させているのか」が、「発音からだと」掴みにくいところですね。”絵””音楽””ストーリー・文脈”というアンカーが引かれてるから、さっぱり分からないということはないだろうけど、強がりと本音との境界線を曖昧に出来るだけの弁別特徴の弱さを兼ね備えている。
うーん、なんつーか、合いすぎ、パネェ。




CLANNADは、(比較的どうでもいい箇所において)細かい場面転換を行っているところで、退屈さを緩和しているなぁとか思う。具体的には2話序盤、学食で「恋人でもいれば……」「それだ!」の直後、”なぜか”学食でその話をしないで、一端中庭に移動しているところとか。(画面効果を入れてるんだけど、これは会話が連続だけど場面が連続でないことを明白に知らしめるためなんでしょう)
……と思ったけど纏まらないのでメモ。
とかなんとか。