CLANNAD AFTER STORY 第7話 音楽と文脈と解釈に関するおぼえがき

CLANNAD AFTER STORY 第7話。


今回、個人的に気になったのは『音楽』です。
これはきっともの凄く当たり前な話で、知ってるor気付いてる人からすれば「何を今更」で、そうでない人にとっても「わざわざ書くほどのものじゃねえ、こんなのJKじゃん」と思われるかもしれません。つまりこれ以上読んでも時間の無駄になるかもねということ。
ただ僕は、僕がどうしてそういう感情を持つに至ったかを知りたいし、知ったら言語化して自分の中での一区切りを付けたいと思うタイプの人間なので、どうでもいいことかもしれないけれど僕の為だけに記す。




「お前は花の胞子なんだよ」
「これから風に吹かれて旅をしていくんだ。新しい場所で、新しい出会いをするために」
「いつまでも姉ちゃんに甘えてちゃダメなんだ。離れていても、絆が結ばれている。それが家族ってもんなのさ!」
春原が力説するこの部分(Aパート最後のあたり)。


ここ、はじめはギャグやネタかと思ったのです。どうせ春原なんだからまともなこと言わないだろみたいに捉えてました(ひでえ)。春原のめちゃくちゃっぷりは、以前から健在なんですけど、特に芽衣編終わってからは美佐枝さんの猫を売ろうとするわ第7話に至ってはこの場面以外はツッコミが追いつかないくらいにまともなことを言わないしやらないわ(てゆうかこの場面以外はほぼ全部非まとも)で――一応フォローしておくと、その理由として彼なりの焦り的なものと、そこからの開き直り的なものがあるかと考えてるのですが(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20081018/1224262045 ←大雑把ですが)――この時点では、春原といえば「まともなことは言わない」という文脈が僕の中で出来上がっていました。


それを(その認識を)変えたのが、ここで流れた音楽です。「光りあふれる揺りかごの中で」という曲だそうです(nowsの創造した世界さん参照:http://nows2700.blog62.fc2.com/blog-entry-152.html)。


アニメーションの……というか、これは実写映画でもドラマでもゲームでも、おおよそにおいては当て嵌まると思いますが、作中で流れる音楽というのは、受け手にとってある程度コード化されています。
FFなどのRPGなんかを例に挙げるとさらっと分かると思うのですが、例えば、「戦闘の音楽」というのは基本的に殆ど戦闘シーンでしか流れませんよね。もし戦闘以外のイベントシーンなんかで流れるとしても、すぐにでも戦闘が始まってもおかしくないほど緊迫している場面などに限るでしょう。私たちは「戦闘のときにその音楽が鳴ってるから」その旋律の運びが戦闘の音楽だと分かるのですが、それを繰り返し、その音楽の意味解釈のルートを構築することで、「戦闘のときに鳴っていなくても」、それが戦闘の音楽だと分かるようになるのです。逆に戦闘なのに違う音楽が鳴っていれば、ボス戦とかイベントバトルとかではないかと推測してしまう。つまりは、作中での音楽の使い方により、そういった音楽の解釈の道筋が出来上がるわけです。
これは勿論、他作品において音楽がどう使われているのか、という部分も関係します。というか、既にして私たちに出来上がっている、そもそもの解釈回路がそれに近いです。


それと同じ様に、アニメでもそういった、「流れている音楽の解釈」→それが「シーン・場面解釈に繋がる」という事例も多々あるでしょう。てゆうか、この春原のセリフの場面で僕が感じたのが、まさにそれでした。もしここの場面の音楽が、普通の日常シーンみたいな音楽(例えば「馬鹿ふたり」とか)だったら、ネタとして消化していたかもしれない。けれどこの音楽、「光りあふれる揺りかごの中で」が、今までまともな場面で使われてきたこと、テンポや旋律も真面目さを想起させること、――さらに音楽以外の部分、春原発言直後の朋也・渚の言葉や皆の表情など――によって、この場面がネタではない、「音楽が発する通りのシーンだ」という解釈に導かれたのです。


音楽というのは、如何なる性質であれ、受け手の作品解釈(主にその音楽が発せられたシーン・場面・シークエンスの解釈)に、大なり小なり作用すると思うのです。


ここのBGMは映画音楽分析(ミシェル・シオンの)的には「感情移入的音楽」(感情移入を誘導する(感情移入に関わる)音楽)だと思うけど、しかしそれは有効に作用したとまでは言い難い。というか、僕にとっては全然そうではなかった。この音楽というたったひとつの文脈で、今まで築かれてきた春原という文脈が払拭されて春原(または他のキャラクター、特に春原の言葉が向かった先である勇くん)に感情移入できるという程では無かったのですから。しかし、春原の言葉も含むここの場面の『状況解釈』としては非常に効果的に作用していた。音楽が春原の発言のコンテクストかのようになって、それが、春原の発言も含む”ここの状況”の解釈に繋がったのです
つまり音楽というのは、例えばキャラクターの描写やストーリーの流れ、映像の見せ方と同じ様に、大なり小なり、作品解釈の「文脈」として作用するだろうと思うのです。それがこの部分では、比較的顕著に表れていたと思います。


『音楽』に対し、そういう視点を意識して見ると、結構別のところでも発見があったりします。



「みんなに合わせる顔がねえ」
「俺は今から旅に出る」
「今日からは、さすらいの一匹狼よ」
「だが、最後にゆきねえにだけは挨拶をしておきたくてなあ……」
「へっ、女々しい男と笑ってくれ……」
ここで流れている音楽は「存在 -e.piano-」(nowsの創造した世界さん参照:http://nows2700.blog62.fc2.com/blog-entry-152.html)。この曲は、これまで、ギャグパートの音楽としては使われてこなかったし、またこの真剣さを纏った旋律はそれだけでもギャグパートの音楽ではないと分かるでしょう。
この不良くんは、引用したセリフだけなら、かなり意味不明な雰囲気もあります。CLANNADでいきなり不良が出てきて「俺は旅に出る。さすらいの一匹狼だ」とか言われても、”CLANNADという文脈からしてみれば”、真面目に受け取りづらいものでしょう。ここの音楽がもし、Aパート最初に流れた「資料室のお茶会」だとか、春原がおちゃらける時によく流れる「馬鹿ふたり」とかだったら、この不良くんのセリフも、多分真面目なものとして受け取るのは難しいのではないでしょうか。



春原「あの……ここ、学校の資料室だよねぇ」
朋也「たぶんな……」
実際、面白いことに、音楽(「存在」)が聞こえていない朋也・春原は、彼ら自身の文脈で、不良くんの一連のやり取りに、意味不明なものに対するような反応をしています。


ここがもしも無音だったら、視聴者も、どちらかというと朋也のようなの解釈をしていたかもしれません。なんじゃこりゃいきない、みたいな。個人差もありますが、視聴者に一番文脈が近いのは、主人公であり、一番多く長く描かれ一番理解されている朋也でしょうから。
このシーンは、そこに「存在」という『音楽』で、そうではない文脈を作ったのです。


余談ですが、ここでは感情移入的音楽を朋也でなく有紀寧・不良くんサイドに置いていましたが、それだけではなく、今回は全体的に朋也以外に対して働きかけるような音楽が多かった印象です。エピソード的に、朋也への感情移入を誘導しても話が進まない(実際、今回の朋也は殆ど脇役みたいでしたし)、朋也に視聴者のフォーカスを合わせるようにしても齟齬が生じる(今までのCLANNADとちょっと違う感じの流れなのですから)から、音楽面も、有紀寧・不良くん・または勇くんサイドに誘導する・あるいは状況把握に努める、という部分があったのかもしれません。


視聴者のCLANNAD文脈的に違和感ありまくる部分も、音楽を通じて文脈を補強・補正し、正しく状況認識できるようになっている。さらに言うと、それに留まらず、音楽を通じてそれ以降の視聴者のCLANNAD文脈にコミットできていると言えるでしょう。今までのCLANNADとちょっと違う今エピソードの雰囲気を、「それを含めてCLANNADだ」ということにできるように、誘導されている印象があります(例えばこの直後、不良くんが窓から逃げ出すシーン、ここでも彼は芝居じみたセリフを述べていまして、しかしもうそこは無音の状態だったのですが、それでも、これはもうギャグでもネタでもなくまともなモノだとして受容できるようになっている)。



また、そのちょっと後の、不良同士の対立関係を説明するシーン、ここも先と同じ様に、「東風」という音楽が使われることにより、視聴者のCLANNAD文脈的には違和感ありまくる「不良同士の対決」も、これも(このエピソードも)またCLANNADだ、みたいな解釈に導かれるようなものになっています。


えっと、そんな感じで、音楽って凄いねヤルね!とか、音楽を意識して見ると面白いかもねとか、そんな感じです!(結論とか良い締めとか特に無い)