マンガをアニメ化することにより生まれる・失われる時間/変わる潜在

マンガをアニメ化した際に「生まれてしまう/失われてしまう」ものってなんでしょう?
これは小説(ライトノベル)をアニメ化でも当てはまりますね。


正解は『時間』でした。
や、時間の他にもたくさんありますけど。てゆうか記事タイトルに正解書いてるけど……。


マンガをアニメ化(実写映画・実写ドラマでも同じですが)すると、『時間』が生まれてしまいます。あるいは、マンガにあった『時間』が失われてしまいます。
もしかしたらこれを解消する手法がある(これから開発される/もしくは僕が知らないだけで既にある)かもしれませんが、現状では、それを局地的にごまかすことはできても、全体的にどうこうすることはできないでしょう/今のアニメの形態は、そうではないでしょう。
『時間』といっても、大雑把に(というか記事を書きやすくする為の便宜上のものであって、全く再考が必要ですが)分類すると二つあります。ひとつは、作品の形態に縛られるもの。そしてもうひとつは、その形態を通じて作品を受容する以上どうしても生まれてしまうものです。

ひとつめ

アニメは、基本的には『映像』ですから、それは常に連続的であって、殆どにおいて瞬間が「瞬間として」存在できません。常にその先の瞬間の、未来を指向するもの(さらに過去が残滓するもの)となってしまっています。
対してマンガは、そこに描かれているものは、基本的には「瞬間の連続」です。
ちょうど『よつばと!』のアニメ化のお話が話題ですので、そちらを参照してみましょう。
よつばとアニメ
http://azumakiyohiko.com/archives/2008/12/05_0932.php
例えば、『よつばと!』1巻のP54・P55を開いてみてください。ちょうど第2話の最初の部分です。
ここでは、よつばが、睡眠から目覚めて、部屋を出て、あたりをきょろきょろ見回すというのが2ページ10コマ(状況説明的な最初の2コマを除くと8コマ/あるいは3コマ目も含めれば7コマ)で描かれています。
取りあえず7コマということで見てみましょう。
「寝ているよつば」「眼を開ける(起きる)」「立ち上がり「朝だ!」」「ふすまを開けようとガコガコする」「勢い良くふすまを開ける」「廊下を走り出す」「辺りを見回す」
という7コマになっています。
これをもしアニメ化したら――忠実に描いたら――「寝ているよつばが眼を開けて立ち上がり「朝だ!」と叫んでふすまを開けようとガコガコってしてばんっ!と勢い良くふすまを開けて廊下を走り出して辺りを見回す」、という風になるでしょう。
この違いです。
マンガの絵は、「寝ているよつば」は寝ているよつばのその瞬間、「勢い良くふすまを開ける」は勢い良くふすまを開けているその瞬間ですが、アニメの動き(時間の動き)というのは、常に、その瞬間だけを純粋に拾うことができない、その瞬間そのもの次の瞬間により過去へと流れていってしまう。
これはコマ割りどうこうもあるかもしれませんが、そもそも形態のお話でもあるでしょう。喩えとしての例ですが、『写真』を何十枚か撮ってアルバムにするのと、『ビデオカメラ』で同じ場面(例えば運動会とか)を撮った絵/映像を比べてみてください。前者は「その瞬間」を写し取って、その瞬間がアルバム内でアーカイブ化されますが、後者は必ずその瞬間ではなく「連続」が写し取られ、実際的には連続でしかそのビデオ内でアーカイブ化(参照可能領域としてそのテクスト内にて完結している一領域)されません。過多になりすぎて、相対化しすぎて、さらに連続だしで、「瞬間」とはなりづらいのです。


もう少し分かりやすい例を挙げると(ただしこれはアニメでも殆ど再現可能ですが)3巻の149ページなどがそうでしょうか。

泣きそうになったよつばをジャンボがなだめる場面。
これは右から順に、よつばが「怒ってる・泣きそう」「怒ってる・泣きそうが和らぐ」「笑顔になる」と、よつばの感情の変化、まさにその逐一の瞬間が描かれています。
これはアニメでも、例えば背景やカメラの動きを使って「瞬間を切り取る」ぽくすることは存分に可能ですしきっとそうするでしょうが、もし例えばの話、これを何も考えずにだら〜っと連続的に一貫的に描写しただけでは、瞬間としてのアーカイブ化は難しいでしょうし、例えばこの3つの表情の間にあるかもしれない表情をいくつも描いてしまったら、過多(相対化)から瞬間としてのアーカイブ化は不可能になるでしょう。
「瞬間」として「アーカイブ化される」というのがどういうことかというと、その瞬間が過去も未来もなく等価になり、しかも作品が手元にあればいつでも参照可能になるということです。例えば『よつばと!』は、ページをめくれば、いつでも「ある瞬間」を参照することができるでしょう。そしてそれは、それだけなら(物語を離れれば)、どの瞬間もそれ自体に重みはない。等価のものを常に参照できるということは、常に作品内にその瞬間が(今がどの瞬間であろうとも)潜在可能であるということです。
アニメにおいて、過去の瞬間が参照できないかと言えば、もちろんそんなことはありません。が、しかし、マンガのそれとは、どうしても殆どの部分において異なった形になってしまうでしょう。先に上げた連続性が前提となっているという点。絵の過多(最近のテレビアニメでしたら普通(例外もありますが)1話に1000枚以上の絵を用いるでしょう)が瞬間をぼやかしてしまう(どこを瞬間にしていいのか分からない/細かくすればするほど、類似的になり等価な瞬間になってしまう)という点。これらの点から、マンガとまるで同じ瞬間をアーカイブ化することが難しいと言えるでしょう(そもそもアニメでどこかの瞬間を参照するのがマンガより手間だというそっけないけど大事な問題もあります)。


マンガでは「瞬間だけ」を描ける(とりあえず『よつばと!』のコマは、殆ど全てがそう)のですが、アニメで「瞬間だけ」を描くのは難しいし、また受け手が「瞬間だけ」を受け取ることが難しい(この辺は「受け手にとっての時間」というものも絡みますが、それはまたいつかということで)。アニメの「瞬間」は、次の瞬間、その次の瞬間――つまり「連続」により、常に過去へ過去へと流れていってしまう。連続ゆえに、時間が生まれているゆえに、瞬間が画面を通り過ぎていってしまうのです。別の言い方をすれば、わたし達は常にテクストに遅れての認識となると言えるでしょう。


(「ふたつめ」の『時間』は、後日に続くかも……いや続かせるまでもないかも。禁書目録アニメ化でどうこうっていう、ちょっと前に話題になったあの部分のことです。おわり)(てゆうか色々と変だな……あとで練り直す)