CLANNAD AFTER STORY 第20話の感想

今週も今週とて人生すぎました。感想も感情も、おわり。以下は何か、残滓的な何か。

幻想的、あまりに幻想的

嘘のような、フィクションのような、幻想のようなもの。
と。
嘘、フィクション、幻想そのもの。
このふたつの間には圧倒的な溝がある。
今回のクラナドは、その出しっぷりが綺麗すぎるじゃないですか、よってこれは狂ってるほど人生なのです(あるいはこれを人生とかいう俺が狂ってるのです)。
時系列で追えば。
まず、嘘のような、フィクションのような、幻想のようなもの――つまり嘘みたいだけど、フィクションっぽいけど、幻想的だけど、でも本当だ、実際だ、現実だ、というものの現われ。

たとえば冗談みたいにデカいボタンは、その見た目(顔など)も冗談みたいな形状で、非常にマスコット的にデフォルメされてて、つまり現実的な生物じゃない。まるで嘘のような、フィクション・幻想の世界から抜け出してきたような、存在。

高校の同級生で最近全く連絡を取っていなかった人と、娘の保育園を介して再会する。これもまたフィクション的な、出来てる偶然。しかもこの、杏と会った瞬間に朋也くんの脳裏をよぎる、高校時代の記憶――つまりここで、”あの頃”と”いま”が接続する。いえ、そういう段で運ぶなら、風子も勿論、というか、より、そうでしょう。風子と再び(朋也にとっては初めてですが)会えるなんて、嘘みたいな、フィクションみたいな、幻想のような出来事。その顕現。
高校時代の友達とか、ましてや風子とか、まさかの再会だし、わたしたち視聴者からすれば、上の画像一枚でも、”かつての”彼らを思い出し、そこにまさかを見て取れる。つまり。「かつて」とか「風子」とか、今の自分とは関係ない、接続しない、「なくなったと思っていたもの」が、まるで嘘のようなフィクションのような幻想みたいな偶然や奇跡を介し「現実」となり、再び今自分の元に現われたのです。


それは、どれだけ嘘みたいでもフィクションぽくても幻想的でも、「現実」。
そして「現実」でないのなら、嘘みたいなものもフィクションぽいものも幻想的なものも、やはり嘘でフィクションで幻想になってしまう。
たとえば。木漏れ日(挿入歌)のときの情景。連続もなく、声もなく、絵と歌だけで語るようなそれは、汐のいないときの朋也、そして朋也のいないときの汐という、今やわたしたちにとってはじめて見る彼らの姿なのですけど、それは現実。導かれるように病院の前に立つ汐――ここが「元々何の場所だったか」を考えれば、それこそ嘘、フィクション、幻想なのだろうけれども、しかし。本当に、実際に、現実にいま、そこに汐はいる。いてしまう。不可視で怪しげで不安を誘うその幻想的な繋がりは、見えはしないし証明はできないけれど、しかしいくら嘘っぽくてもフィクション的でも幻想級だろうと、それは本当・実際・現実として、目の前(画面)には顕現している。
たとえば。だんご大家族を歌ったとき、脳裏に(あるいは夢裏に)浮かんだ、渚と朋也と汐、三人の姿。それはいくら望んでようが焦がれてようが、見たかろうが届きたろうが叶えたろうが、やはり本当でも実際でも現実でもなくて、嘘でフィクションで幻想でしかない。



いくら想ってもその向こうはこちらにこないわけです。ここまでのような、幻想みたいな現実ならある。あるいは↑こんなふうな、あるいは風子とのディスコミュニケーションのような(「風子を懐柔するつもりですか」「それは大切に想ってくれているということなのでしょうか」)、うしろに現実が隠れている、ヴェールとしての、まやかしとしての幻想なら幾らでもある。
でも「お前が生きていてくれたら――」の後に朋也が思い描いてしまった光景には届かない。

この幻想――最後の、この写真のところでは、白いモヤが取れて、幻想と現実との境位が同一になるかのような、つまり現実のそれ”みたいに”一瞬だけ描かれるけど、でもやっぱり幻想だった。嘘だ、フィクションだ、幻想だ。
ここに見えるのはおぞましいくらいの現実感。
幻想みたいな現実はあるし、現実を裏に隠した幻想のまねごとはある。けれども、本当の幻想には永遠、届かない。幻想は現実になりえない。「お前が生きていてくれたら――」という願いは、幻想以上のものに、ならない。

現実的、あまりに現実的

もちろんこれは、悲しくはあるし、寂しくはあるだろうけど、悲観するようなものではないです。だってそうじゃん、失われているものは失われているからこそ失われているわけじゃない。幻想は現実じゃないからこそ幻想なわけじゃない。叶わないものが叶わないのは当たり前。――かつての朋也くんは、そこで足を止めて目を瞑って耳を塞いでしまったわけですが、けれど今は違う。汐がいるから。
「パパ、頑張って」
の一言で、乗り気じゃなかった運動会にも、一気に前向きに全力で取り組んじゃう。


人は変わってくし、関係も変わってくもの。朋也と杏の再会は、もう過ぎ去ってしまったものが帰ってきたような彩りを見せるけど、けど実際は違うわけです。親バカっぷりにこれまで見せたことないような表情見せる朋也も、それを笑う杏も、「かつて」とは異なる。それは今の朋也で今の杏であって、実は決して「なくなったと思ったものが帰ってきた」わけではなくて、ただ、昔と今を接続しながらも、彼らは”いま”にあるわけです。決して過去を生きているのではなく、過去の続きを生きているのではなく、過去から繋がっている”いま”を生きている。
どんなに、嘘みたいだろうとフィクションみたいだろうと幻想みたいだろうと、現実は現実。そのふたつの溝は永遠で無限。
渚はもう居ないのです。幻想にそれを視ても現実に居ないし、そして現実には汐が居るから、そんな幻想をいつまでも見ているわけにはいかない。朋也くんが左手薬指に指輪をしていました――というか、先週からしてたんですが――が、朋也くんにとって渚が生きてる場所は、もうそこにしかない。彼の心の中にしかない。それは心ですから、現実ではなくて、幻想。いくら視ようとしても現実には居なくて、なくなったと思ったものがそのまま帰ってくるわけはなくて、幻想という姿でしか帰ってこなくて、でも。現実には、汐が居る。朋也を必要としてくれる人がいる。だから、朋也は頑張れる。
朋也くんが愛情を持って汐に接する姿は、そのまま。直幸が愛情を持って朋也くんに接する姿を幻視させます。幻想的に。あるいは、現実的に。




さて、いよいよ佳境ですね。わたしたちが京アニCLANNADを観れるのも、わたしたちが京アニCLANNADでみなさんとお会いできるのも、あとほんの数回。それができたら、よろしかったら、また来週も。わたしが感想を書いて(書くことができて)、あなたがそれを読んでくれることを願います。