テキストと音声による意味の二重化と、二重化による三重化(俺つばネタバレ)

エロゲで、セリフの「文字」と「声」が別々のものである、そういうのってたまに見かけますよね。テキストじゃ○○と書いてあるのに、音声じゃ××と云っている。そんな感じの。「俺たちに翼はない」で、そんな感じのを結構見かけたので、その辺のお話をしてみます。

※「俺たちに翼はない」のネタバレ含むのでご注意ください。


case:1



日和子「………………」
 げっ、なんか口とがらせてブツブツ文句言ってる……聞こえないふりしとこ。実際聞こえなかったけど。

2章後半戦、鷲介と英理子さんが、日和子の小説の感想などを喋ってた後の、日和子さんのリアクションです。
ここで鷲介くんは「聞こえなかった」と云ってるし、テキストにも「………………」と表示され、文字だけでは何を言ってるのか「聞こえなかった=読めなかった」状態なのですが、わたしたちプレイヤーには聞こえていました。
「もっと早く言ってくれればよかったのに」
ただ、聞き取りやすい音声ではなく、ボソボソとした発声だったので、普通にプレイしていたときは鷲介くんと同じように、プレイヤーも聞き逃してしまうかもしれません。

整理すると、
・鷲介(作中の視点人物)には聞こえなかった。ただ、何かを喋ってるのは分かった。
・テキストは「………………」と、読めない=聞こえないという状態。
・プレイヤーは聞こえた。ただし、ボソボソっとした声だったので、聞き逃してしまう可能性は高かった。


これはある意味そのまんまですね。鷲介と同じ様に、わたしたちも「聞き取りづらい」という感想を抱く。
ただし、その一言で単純化できるだけのものではなく、それでもわたしたちは(注意したりバックログを流せば)聞こえるということ、そこから生じる意味、なぜわたしたちにはそれでも聞こえるようにできているのか、そこから生じる意味、などが発生するでしょう。つまりで述べると、こういう手法により意味が「多重化されている」ということです。ひとつの意味に収斂しきれない――鷲介くんにとってはともかく、少なくともプレイヤーにとっては。それについては、おいおい、別の例示を元に見ていきましょう。
ある点では、プレイヤーと日和子さんとの秘密の共有ともいえるかもしれませんね。この瞬間だけは、鷲介くんより、プレイヤーの方が一歩抜け出している(抜け出してしまっている)。また伏線的な効果ももたらすでしょう。

case:2




 自動改札に切符を通したとき、後ろから小娘の声が聞こえたような気がした。
亜衣「あっちゃー、真顔でそんなん正直しんどいんですけどー」
 だけど内容は雑踏に紛れてよく聞こえなかった。
亜衣「てか気付けよなー、いまだに未練ばりばり100%だってのー。もー、鳴ちゃんに会うのが辛いのだって、どー考えたっておまえのせいだろがよー」
亜衣「ばかやろー、はやくフラれちゃえ……」
亜衣「いつまで待てばいいんだよ……」

ちょっと他の例とは違うというか、テキストとヴォイスは乖離していないのですが、一応としてこちらも。3章エピローグ。
隼人(3章の主人公)と上手く行かなかった亜衣が実は未だ(1年後までも)未練ばりばりでした、というのが明らかになり世の修正パッチまたはファンディスク期待度がさらに高まった一場面なのですが、ここは、隼人が「声が聞こえたような気がした」「雑踏に紛れてよく聞こえなかった」と述べながらも、プレイヤーには、声ははっきりと聞こえ、さらにテキストもはっきり読める、そのような状態になっていました。
これは二通り考えられますね。ひとつは、隼人は聞こえてるけど聞こえないフリをしている、つまりしらばっくれてる。それは意図的にしらばっくれてるのか、あるいは無意識的にしらばっくれてる――例えば、耳を澄ませばその声の内容も聞こえるのだけれど、これ以上亜衣に関わっても(踏み込んでも)お互い不幸になるだけだから、敢えて聞こえないように、というか、”聞かないように”している。つまり、はっきりとしたテキスト、はっきりとした音声が示すように、あの世界で実際に亜衣ははっきりと口に出しているのだけれど、隼人にそれは聞こえない/あるいは聞かないようにしている。
もうひとつは、本当に聞こえなかった――むしろモノローグに近かった。背景に改札口を写していたのに、「てか気付けよなー」以降が、背景真っ黒になったのが示唆的でしょう。あれは改札口が背景に在るような世界ではなく、真っ黒のスクリーンが背景に在るような世界にて語られていた内なる言葉であった。そもそもコーダインが隼人にあんなことを”聞こえるように”言うか? と考えれば、「あっちゃー、真顔でそんなん正直しんどいんですけどー」まではともかく、それ以降の言葉を”わざわざ聞こえるようには”まあ言わないかもねコーダインだから、という疑念もあります。
他の例とは違い、叙述的ニュアンスが強い例ですが、しかしこれにも、ある種の多重性は導かれているでしょう。

case:3

小鳩「〜♪」

統合編。クリスマスイブ(小鳩の誕生日)に一緒にでかけよう、と誘って、小鳩が喜びに浸っているところです。ここでは、テキストは「〜♪」としか表示されていませんが、音声では「クッリスマス〜、クッリスマス〜」とはしゃいでいる小鳩の声が耳に聞こえます。
上に挙げた2例は、叙述的な意味合いの強い例でしたが、この小鳩の例は、もっと心象面に偏った、セリフとテキストの乖離でしょう。
つまりどういうことかというと、実際にここで(物語世界内で)小鳩が「何と言ってるか(喋ってるか)」となったとき、恐らくそれは音声である「クッリスマス〜、クッリスマス〜」だと思われます。つか、「〜♪」なんて喋りよう(発音の仕様)が無いですし。しかし、そうでありながらも、テキスト上は「〜♪」。
ここではふたつの意味が相互に交錯します。「クッリスマス〜、クッリスマス〜」という発音を一言で(文字で)表現すればテキストである「〜♪」にあたる。逆に、テキストの「〜♪」を一言で(発音で)表現すればヴォイスである「クッリスマス〜、クッリスマス〜」にあたる。
つまり、片一方だけでは味気ないものを、それぞれで補っているというわけです。「〜♪」だけでは喜びの表現として足りない、それを音声の「クッリスマス〜、クッリスマス〜」が具体化し彩る、また逆に「クッリスマス〜、クッリスマス〜」だけでは味気ないものを、テキストの「〜♪」が感嘆符的に彩る。それぞれが、相互補助的に作用し、その感情の強度を表現し、また――ここが最も重要なのですが――決してテキストのとおりの音声ではない、決して音声のとおりのテキストではない、ということは、このテキスト&音声は、それらの片一方に統一できないくらい強いものが働いている、つまりそれらのどちらにも統一できないくらい強い感情が生まれそれがこの乖離のようにまるで矛盾のように働いている、そのようなことを示唆しているとも言えるでしょう。多重性から、それはひとつの意味に統一しきれない、回収しきれない強度がそこに含まれているかのような感覚を起こすのです。これは――次に挙げる例が、何よりも最も激しく示すことになるでしょう。

case:4

ガルーダ「あ、あ、あそこを! あそこを落とせば敵軍に壊滅的な打撃を与えられる! そして山々が削り取られた今なら、我がウッドゴーレム部隊で全周囲を包囲できる! 誰ぞ、誰ぞある! 余の杖を持ってまいれ!」

ガルーダのテキストと音声の乖離。もう何十回とあった場面なので、ある意味言うまでもないでしょう。彼は過度の怒りに満ちると、しょっちゅう――というか、ほぼ全て――テキストに記されたセリフと、ヴォイスで発音しているセリフとの間に強烈な乖離が生じてしまいます。
たとえば上記引用の場面なら、音声の内容はこうです。
「ガルーダロッドで、ぐわぁ〜〜ん!!」(聞き間違えてる可能性アリ)
これは単純に笑ってはいられない、かなり悲しいニュアンスも醸し出します。ガルーダとしては、「あ、あ、あそこを! あそこを落とせば敵軍に壊滅的な打撃を与えられる! そして山々が削り取られた今なら、我がウッドゴーレム部隊で全周囲を包囲できる! 誰ぞ、誰ぞある! 余の杖を持ってまいれ!」と喋りたいのでしょう。彼の意識下の言語認識ではこの内容を発声しようと思っていたはずです。てゆうか、彼は自分でも、これを述べたと思っている、信じ込んでいるかもしれません。しかし、実際には、実際の発音は、「ガルーダロッドで、ぐわぁ〜〜ん!!」、それしか言えていないのです。自分の杖(ガルーダロッド)があれば、それを使用した力(ウッドゴーレム部隊の召喚?)で、敵に大打撃を与えられる、だから誰か杖を持って来い、と”言いたい”し、自分では”そう言った”と思っているかもしれないけれど、怒りに”発声機能”さえ支配された彼はもはや、普通の発声が――彼の意識するとおりの発生ができず、つまり意思伝達が、自分ではできてると思っているかもしれないけれど、実はできておらず、端的に、その感情の発露的な発声(「ガルーダロッドで、ぐわぁ〜〜ん!!」)のみが可能であった……。
もの凄く単純化していうと、「怒りに我を忘れてしまう」と同じ様な状態。怒りで、自分が言いたかったことが全く喋れない。しかもそれが、陛下の場合は、ずっと続く、しょっちゅうあるのです。形而上の発音ではテキスト通りに喋ってるはずなのに、実際上はそう喋れていない――音声どおりの発音であった。怒りの中の彼がしょっちゅう(音声ではなくテキスト上で)口にする「誰ぞ、誰ぞある」という言葉が、悲しく響いてきます。この時点で、傍らに居るフェニックスのことは消えてしまっているし、そもそも何よりも、それが発音できていない以上、いくら「誰か」に言葉を投げかけようとしても、「誰ぞ」と発音できてない以上、その「誰か」には永遠に届かない……。
とはいえ、もちろん、これとて一つの読み。ここでわたしはヴォイスを上位(実際にあの世界でガルーダが喋ったのはそっち)と取っています――それはヴォイスが属する審級とテキストが属する審級の違い、テキストはいくらでも叙述が、強調が、つまり無かったことをあったこととして記してしまう嘘が入りうるけれど、声に直截なそれらが入ることはあまりない、あまり目にしない、てゆうか気付かない、(明らかなモノローグ形式など取らない限り)本当は無かったことが発音されていても気付けない、つまり声が持つ現前の身振り、その辺からもきています――が、実際はどうなのか分かりません。テキストを読む分には、物語世界における彼の発音は、テキスト上の言語ではなくヴォイス上の言語のように思われますが、しかし同時にまた、その逆である可能性も全く否定されていません。あるいは、両者の混合的な、テキストでもヴォイスでもない別の何かであった可能性も。
だから、この意味は逃れ続けている――どちらかに汲み尽くせない。そしてその二重化は、その多重性を元に、さらなる多重へと至るでしょう。ならばここで言いたいことは一つ。そうであるからこそ、この描き方は、彼らの強い感情を思わせる。上の小鳩だったら、文章にも言葉にもしきれないほどの喜び、楽しみを。このガルーダだったら、文章にも言葉にもしきれないほどの怒りを。彼らはそれだけの感情を抱いている。そう思わせる強度が色濃く残りました。



テキストとヴォイスの乖離は何を生み出すか? まずそれは、(ヴォイスを加味した)テキストの意味、ついで(テキストを加味した)ヴォイスの意味、そして最後に、その多重化により生まれる第三の意味、つまり、「多重である」ということ、そのものが持つ意味も含む意味、でしょう。
しかしながら、それらは、そうであるからこそ、ひとつの意味に収斂しきれない。ひとつの意味として判別しきれない。つねに意味決定から逃れていくものである。しかしそうであるからこそ、確定しきれない剥き出しを持ってしてひとつの単位として収束すれば、わたしたちプレイヤーにとって強い印象を残すものではないでしょうか。