CLANNAD AFTER STORY 最終回

まずは。
ものすごく素晴らしかった。ものすごく良かった。ものすごく最高だった。
と、絶賛を。
究極です最高です極限です限界です。面白いも泣けるも笑えるも楽しいも悲しいも感慨深いも考えさせられるも全部まとめて、本当に幸せな作品でした。視聴するだけで幸せになれる作品などどこにあろうというのか。ここにある。ってわけで、僕はもう、勝手に感謝してます。これを作ってくれた方たちと、これを見ることができてきたことに。
さて、次に、内容を。
幻想世界は何だったの?とか、ラストの少女の正体はいったい何?とか、光の玉ってつまり何?とか、色々疑問溢れる感じなんですが、もうね、そんなもんどうでもいいと思わされたんですよ。とりあえず。ひとまずは。原作ゲームをプレイした時も、個人的にはそうだったんですけど。分からない、けれどそれは”措いといて”。原作でも(アニメと同程度の)説明しかないので、アニメで初見時がイマイチ分からないように、ゲームでも初プレイ時はイマイチ分からない。けどその辺はひとまず措いといて――というか、むしろ、ある意味、これが正しい形なのでしょう。もっと分かりやすくすることも、もっと説明することも、可能かもしれないけれど、そうしてしまったら、別のものになってしまう。なのだから……いやもうなんつうかね、本心のところ、「原作未プレイだからワケワカンネ」という感想には、もはや悔し涙が出そうなくらいなのです。原作ではもっと詳しく書かれてた、というわけでもないです。アニメも原作も、随分と大雑把に言えばどっちも似たようなもので、大きな差はない。というか、というかというか、僕はこれをこそ言いたいのですが、たとえもし、その差があっても”関係ない”。今見たのは京都アニメーションCLANNADなんだから、その京アニCLANNADの映像・音声を元に、感じるべきで、考えるべきで。原作はどうこうとかではない、アニメを見るってことは、その、目の前のテレビなりモニターなりに映し出されたものにおいて、何が描かれたか、何が描かれないことによって描かれたか、を、まずは感じたり考えるべきで、そこを放棄して解釈停止することは許しがたい。アニメ作品と向き合わない理由を原作に押し付けてるようなもんだ。つまり京アニCLANNADを見てくれ、見てください、見てあげてホントに、と言いたいのです。この作品に向かい合わないでこの作品を語るという姿勢が悔しくてしかたがない。ワケワカラナイなら、ワケワカラナイでいい。いや僕も分からんし。ただ、その場合に述べる言葉は、「原作未プレイだから」じゃなくて、「俺が分からないから」であるべきだ。原作なんかひとまず忘れちゃってでも、ここにある京アニCLANNADに向き合う。そうしないと、作品だけではない、この作品を見た自分すらも、報われないのではないだろうか。
脱線したので、戻線します。
ゲームもそうでしたが、今回のこのアニメにおいても、素晴らしいし良いし、凄いモノ見たなぁ、って気分になりました。
んー、やっぱ端的に言うと、「凄いモノ見たなぁ」って感じです。凄いとしか言いようがない。そして凄いというのは、勢いがある。意味に回収できない浮遊する部分――つまり「ワケワカラナイ」のところが、「ワケワカル」ところに、それを纏め上げ集束し上層へ積み上げていってる感覚。
第一印象としては。坂道での、朋也の「渚ぁーーー!!」って叫びと、あの靴が脱げる勢いで抱きしめるところ、それと最後の風子のセリフ。そこが凄く印象的でした。こういう言い方はなんですが、正直、視た時の直感としては、これまでの45回は全てこの時のためにあった、みたいなことを思ってしまったほど。前者は、それまでの「普通の世界」ではない描写からの一転。終わってしまった世界である幻想世界が終わる時、静止した、色のない坂道の世界が――まだ始まってもない(選択してもいない)世界が、朋也の大きな声と、大きな動きにより、時が刻みだし、色彩が付いて、一息に始動する。この『転換』。これは作品の最後を飾る、後者のエピローグでも似ている部分があって。
これは……ここで還ってきたという感じで感慨深いんですけど、やけに『演劇的』な素振りだったんですね。風子と公子さん、両者が、立ち位置に合わせるかのように、一定間隔でピタリと立ち止まって会話劇を繰り広げたり、カメラアングルも、ちょっと引いて、その小劇を見るのに合わせたかのようであったり。最もそれっぽいのが、最後の「何の匂い?」のやりとりのところでしょう。脚本でも作るかのようにセリフを合わせて、即興劇ぽくになっていって、立ち位置のポジションもしっかりと取って、動きも(たとえば風子の「誰かいます」のところとか)毎回おんなじ様なポージングを取ったり。そしてそれを繰り返すわけです。リテイクするわけです。
繰り返すわけです。反復してるのです。でも、厳密には反復じゃないんですよね。
やってることは大まかに見れば殆ど繰り返しだし、少なくとも目指すところは毎回一緒だろう。細かいところは違うけど、細かく見なければ一緒。でも、実はそれすらも違っていて、何せ見るための、繋いでいる装置であるカメラのアングルが、毎回異なる。反復のように見えて、繰り返しのように見えて、実は異なっている。外側から大雑把に見れば「おんなじ」に見えるかもしれないけれど、内側を細かく見ればちょっと違ってたりするし、そもそも実は、見る際のパースペクティヴからして、つまり観測するこちら側からして、毎度毎度違いが生じる。
そして最終的には、風子は『女の子』に会いたいがゆえに、その繰り返しから強引に抜け出すかのように、彼女は駆けていく。駆けていく風子を映すアングルが、坂道で駆けていく朋也くんとおんなじだったりしますね。そして駆け出す動機も同じ。つまり『会いたい』。会って、一緒に遊ぶ。会って、一緒に歩く。「風子とお友達になって、一緒に遊びましょう。楽しいことは、これからはじまりますよ」。
あの、他人に声をかけて「友達になって」なんて、恐いのか不安なのか必要ないと考えていたのか、いずれにせよそんなことはとてもじゃないけど言えなかった風子が、それを思えて、言えて、しかも「楽しいことはこれからはじまる」とまで思えて、言えている。それは「出会うことで不幸がはじまる」と、諦めを慰めの領地で、慰めを諦めの境地でやり過ごしていた朋也くんが、それでも、それでもなお、「渚ぁーーー!!」と叫んでしまう、走っていって抱きしめてしまう、その何としてでも出会いたい気持ち、それと相克するかのようです。

「僕はこんなところで何をしているんだろう」「この誰もいない、もの悲しい世界で」
「ここが、僕らの旅の終わりなのか」「そんなことは思いたくなかった」「こんな冷たい場所で、彼女を眠らせてしまいたくなかった」
「ああ、旅が終わる」

そうすることで、また不幸に出会うかもしれない。また悲しい思いをするかもしれない。不安も恐怖もゼロになるわけではない。千回声をかけたら千回悲しい思いをするかもしれない。でも、「楽しいことはこれからはじまる」。声をかけない世界、静止した、モノクロの世界は、まだはじまってもいないわけで、つまりは(はじまることなく)終わってしまった世界で……でも、だからこそ、はじめることができる。風子と公子さんの『演劇的』な所作も、そうであるがゆえ、まだはじまっていない。他者と出会う、そして一緒に遊ぶなり一緒に歩いてくなりする、という恐ろしく不安で、でも冷たい場所ではなく終わった世界でもないその『世界』に、まだ出会っていない。しかし、だからこそ、はじめられる。幻想世界でいえば、そこの終わりは、新たなはじまり。はじまりが、常に、潜在的に、そこに在る。はじまっていないものは、つねにはじめることができる。


幻想世界というのは「逸脱」(あるいは「過剰」)なのかも、などと思いまして。とりあえず、描き方においてはそう(ぬるぬる動くという逸脱、今回の崩壊時の過剰的な描写)で、現実(朋也くんたちが生きる場所)との対比においても、光の玉・奇跡との関わり、無生物→生物”的”、な面でもそう。思念的なるものが、世界をなす(世界をなす要素となる)。想いや感情の逸脱や過剰の力場的な存在としての世界の表象、とか。
それは実体の無い想いや感情、思念という「モノ」が、(現実的な意味での)実体の無い実体になるからこそ、『幻想』であり、奇跡的な現象を許容する皿となりうる。
たとえば、『町』。これは何を指しているのか。単純に市区町村の区切りなのか。いやでも、「町はだんご大家族」というのなら、仲良しだんご手を繋ぎ大きな丸い輪になるよ、というように、仲良しが手を繋いだ結果がそうなんじゃないか。渚が「町と奇跡」について語っている場面、その背景で描かれているものは、汐の成長の描写。それは、あそこで描かれているのは、かつての、いや、もうひとつの、というべきか。渚を失って自暴にくれたあの朋也くんが”知らなかった・触れなかった”、空白の5年間。その成長の記録は、汐と色んな人や物とのふれあいは、描かれなかったけれど、朋也は触れていないけれど、あちらの汐にもあったはずで。ならば、汐を古河家に預けていた、あの不可視の5年が示しているのは、町は大きな家族ということ、なんじゃないだろうか。それは逸脱に至らない、この世界に留まる、目に見えない想いや感情。


『小さなてのひら』というのは、直裁には汐のことですけど、当然それだけではなくて。岡崎直幸に手を引かれる子供時代の朋也がそうであるように、みんな昔は『小さなてのひら』だった。それでも、そんな小さな朋也も――『いつからか僕ら追い越してく強さ』――、今ではもう、大きくなり、大人になり、子供を育て、家族を作り、生きている。直幸の元を離れ、追い越していくかのように、その道を歩いていく。これは――かつて直幸にも、恐らく言えたことで、そしてきっと、未来の汐にも言えること。さらにその前もその前も、その先もその先も。
この曲を背景に映される、杏や椋やことみや智代や春原など、学生時代に共に歩んだみんなたちも、またそう。彼らもかつては小さな手だったけど、そこから育って、色々と困難や苦難、また楽しいこととか嬉しいこととかあって、そして今そこに居る。その中には……今”そこに”いるということ、今の手の平がそういうふうになっていることには、確実に、朋也と「出会った」ことが、意味をなしている――だんご大家族的に言えば、「手を繋いだ」ことが。

並行世界でも時間逆流でも夢オチでも何でもいい。大事なことは、どうしてそれがなされたかということは、はじめたから。出会うことで、声をかけることで、はじまる。手を繋ぐことができる。丸い輪ができる。終わってしまった世界と止まってしまっている世界は等価に可能性を含有している。はじめることができる。「見つければいいだけだろ」という第一期第一話冒頭の朋也の言葉は、その非情なまでの厳しさを、自らが証明していましたが、同時に、非情なだけの正しさも、自ら証明していました。”いいだけ”ではないけれど、でも、足がすくんでいるだけでは、終わってしまう、止まってしまう。「俺たちは登り始める。この長い、長い、坂道を」というのは、誰にでも口にできる言葉ではありませんでした。登り始めた者にしか、口にすることはできない言葉。つまり、はじめるということ。

「風子とお友達になって、一緒に遊びましょう。楽しいことは、これからはじまりますよ」