CLANNAD AFTER STORY 番外編 「一年前の出来事」 だいいちいんしょう

ラスト。一応来週(?)に総集編がありますが、総集していないのでは、ラスト。「おしまい」の語が示すように、ラスト。最後の、京アニCLANNAD
素晴らしかったです。めちゃくちゃ素晴らしかったです。素晴らしすぎました。
最後。「おしまい」の絵。まさか先週みたいに「分からない」から適当な評価されないよなぁ……。あれはもの凄く素晴らしい瞬間でした。
くす玉を引くという渚の行動は、つまり未知(他者)と出会う、出会おうとする、ということ。くす玉は確かに人間ではないし、話しかけるわけでもないけれど、それでも、渚はくす玉という未知の紐を引くのです。未踏の地に自ら踏み込むわけです。その先は何ですか。落ちてくるタライですね。未知の場所に自ら踏み込んだら、その先ではタライが落ちてきた。つまり「痛み」がやってきたのです。危害、危険、傷。そういったものが、未知の向こう側にある。それはくす玉ではなく、「他人」でも一緒でしょう。他人に話しかけたら、「それ知ってます。だんご大家族です」と話しかけたら。「ウルトラの母」と話しかけたら。それがはたして、何の危険もなく受け入れられるのか。渚が妄想で抱いたように、皆が笑ってくれたりするのか。本当は受け入れられないのではないか。危険があるのではないか。危害を加えられるのではないか。拒絶されるのではないか、断られるのではないか、嫌な顔をされるのではないか、その先に、痛みがやってくるのではないか、傷が待っているのではないか。
声をかけた先は、痛みが/傷があるのではないか。(坂道で躊躇った朋也くんのように)

「おしまい」の時のあの絵、あの瞬間。それが見事に表象しています。未知に対し一歩を踏み出すと必ずある、痛みをもたらす存在。しかし、その奥には、さらなる未知があるのです。まだ渚は見ていないだろうあの言葉が、未知の先の「他人」の姿が。
この行動は、くす玉から舞い散る紙びらのように、祝福されているもの。そうしなければ、掴めないから。恐れているだけで、出会えるか? (最初の坂道での朋也のように)声をかけなければ(くす玉を引くように)、あるいは(最初の坂道での渚のように)かけられた声に反応しなければ(保健室での渚のように)、はじまらない。それこそ、秋生が言うように「動き出さなきゃ永遠に赤の他人だ」。逆に言えば、動き出せば、その永遠は崩れるのです。「赤の他人」ではなくなるのです。
動き出せば、拒絶されるかもしれない。傷つき、傷つくかもしれない。しかしそれでも、その先には、他者がいる。他者との出会いがある。それは祝福されたもの。それがここで、たった一画面に、凝縮されているのです。


この時点では、朋也・春原・杏と渚は、赤の他人です。いえ、そもそも、今回のお話の最初の時点では、朋也・春原と杏ですら赤の他人でした。それが、動き出したことで、距離が縮まった。赤の他人ではなくなった。それと同じ様に、渚と彼らも、じきに赤の他人ではなくなります。そのことは、わたしたちは知っていますし、また、サブタイトルのバックの木の下の少女が現しているように、それは「約束」されています。確定のことと。しかしそれが確定であるのも、「動き出すから」なのです。
ここで動き出したことで、約束されている。


たとえば、前回、最終回。

「風子とお友達になって、一緒に遊びましょう。楽しいことは、これからはじまりますよ」

その最後のセリフ。
ここで風子が少女に、声をかけて仲良くなってゆくと僕らは想像できますけど、てゆうかしてますけど、しかしこれ、本当は「まだ」なんですよね。まだ、声をかけてはいない。少女に届いていない(聞こえていない)のです。
しかし、仲良くなる姿は、想像できるし、むしろ確定のものとして想像している。エンディングがある種の差異(制服姿の”あちら側の”風子)を示しているけれども、エンディングのように一緒に歩く姿を想像させている。
この呼びかけが、第一話、あるいは序盤、もしくは「朋也が坂道で渚を呼び止めることが無」かったら、その想像は、今のように容易に、自然にできていないと思うんです。けれど、様々な話を、朋也と色んな人たちの出会いを、坂道で渚を呼び止める朋也を、見てきた今の僕らは、未だ声をかけていないあの人見知りな風子が、必ず声をかけるということを、友達になり一緒に遊ぶということを、その未来を風子が必ず迎え入れることを、まだ起きてないそれが必ず起きるということを、確信している。
だからこそこのラストは、ある種纏めあげられるような重みを持っていると思うのです。全ての経験があったから、この「まだ起きていないこと」を信じられる。未来を信じるということ。
その先に、どんな痛みや悲しいことが待っているかもしれなくても、声をかけることができる。踏み出すことができる。その先には、例えばタライのような、死のような、あるいは描かれないという不明のような、痛みや未知や脅威が待っているけれど。でも、幸せな時間や、楽しいことや、「この先の困難に負けず頑張れ」という言葉/想いたちが、待っている。踏み出した先には、痛みと喜び、悲しみと幸せ、その両方が待っている。


だからですね、ここで――これが「おしまい」でいいんですよ。これが「おしまい」でいい。これが「おしまい」なのが素晴らしい。あれができたということで、あれに辿り着けたということで、風子の声かけと同じく、未来は約束されているのですから。
この絵は、パッと見、ギャグみたいです。ドリフみたいです。演劇的といってもいいでしょう。つまり「形式的」といえます。あるいは「儀式的」。要するに、それらが意味するように、”ここ”はまだ上辺、本当の他者に触れていないのです。それでもこの一歩は祝福されるべきだし、実際に祝福されている。そしてその印象どおり、端からみるとそれは「笑い」を含むような、シリアスではない可愛く冗談みたいな光景なのです(しかし本人にとっては逆だというのは、言うまでもないでしょう)。だからもう、ここまで来たらもう、「おしまい」で構わないし、「おしまい」で良いのです。だってここから先を歩んでいくのは、渚自身なんですから。一人で立っている「背中」が象徴しているように、彼女はここから、あの坂の「出会い」に至り、ふたりで並んで歩く「背中」になり、そして坂で立ちすくむ「背中」になり、朋也が声をかける「背中」になり、それどころか走っていって抱きとめる――それが、ここからはじまっていくのです。”ここ”はまだ上辺、”ここ”はまだの地点、つまり最初の一歩。でもそれは、あの場所に続いていく、最初の一歩なのです。こうして、ここから、渚は歩き始める。一年後に向けて。そのさらに先に向かって。