「涼宮ハルヒの憂鬱 笹の葉ラプソディ」を見て思ったこととか

きたよ懐かしいーー!
ということで、ハルヒ(の新作)がついにはじまりましたね。いやしかし、ここまで感慨深いとは。見たことのない映像と、聞いたことのある音楽! これが、ここまで感慨深いとは、ねえ。さすがに驚きました。やべー、キョンが「はじまったな」とか言ってるけどホントにはじまってるよー、って感じ。


しかし、ハルヒ
かつてから3年経った自分がかつてから3年経ったハルヒを見ると、「こうだったのか……」と思わされるとこが多少なりとも見付かります。

ハルヒ「今日は帰るわ。最後の人カギお願いね」
ここ、誰も「じゃあねー」も「バイバイ」も「さよなら」も言わないのか……。
そもそも、不機嫌そうなハルヒに誰も話しかけない……いやもっとそもそも、長門もみくるも古泉も、つまりキョン以外は、含みや用事や考えや企みや質問や疑問や、つまり必要性がなければ、ハルヒに話しかけることはそうそう無い。
考えたら長門もみくるも古泉もハルヒの友達ではないんですよね、この人たち。むしろ立場的に”そうなってはいけない”面の方が強いかもしれません。目的があるし目標がある。下手な関わり方をするわけにはいかない。
となると、第一話序盤でのキョンとの本当に雑談でしかない雑談も、ある意味では貴重なのかもしれません。ハルヒにとっては、雑談自体無価値で、それを自ら避けるようにしていて、だからそもそも雑談自体がなかった筈なのに、雑談が可能であった。「曜日で髪型変えるのは、宇宙人対策か?」の、あの反応。今回で言うと、

ハルヒ「見ればわかるでしょ、メッセージよ」
キョン「まさか織姫と彦星宛じゃないだろうな」
ハルヒ「どうしてわかったの?」

「見ればわかるでしょ」なのに「どうしてわかったの」。この一見矛盾した組み合わせが、ハルヒの(初対面の人への)雑談のスタンス的なのかもしれません。「見ればわかるでしょ」と言っておきながら、相手が「見たからわかってる」とは微塵も思ってない――だから「どうしてわかったの」と返すわけですが。それほどに雑談疎通する気はない、翻せば、そのくらいには門戸が開かれている、そしてキョンはその隙間をくぐり抜けられた。
他三人とキョンとの最もの違いはそもそもはじまりが、起源が違う。その違いこそが、その門戸の隙間を潜り抜けられるか否かの差異。

ラストの「こんにゃろっ」がとってもいいんです。クイーンと、後に見える団長。それに対するキョンの声がね、いたずらっぽく「こんにゃろっ」。んでデコピン。憎しみでも怒りでもなく、軽く愛でるような、いたずらっぽい口調での「こんにゃろっ」あんどデコピン。本人が居ないところで、代理(クイーン)に対してかます一言と一アクション。これがキョンハルヒに対するスタンスや感情、あるいは本音を象徴しているかのように見えて、とてもとても、よいとしかいえないばかりです。

涼宮ハルヒの顔どアップ


ハルヒの顔どアップ!
昔からありましたけど、改めて見ると結構目立ちますね。この、画面の本当に真ん中に「顔(ハルヒの顔)」が来る、という形。

顔のどアップで何か喋られると、それだけで有無も言わさぬ威圧感というか、「正しい」みたいな、圧倒的な説得力を感じてしまいます。どアップでは周囲・世界が後景化し、顔、それに連なる感情が前景化して見えてきますが、それゆえに、その感情ゆえに、有無も言わさぬ迫力がそこに存在する。その圧倒さに、押し切られてしまう。
しかもこのように、「画面の真ん中」。なんという主張の強さ。そして何よりも、画面の真ん中であるがゆえの非人称的な視点。「真ん中(真に真っ正面)」というそうそうないだろという構図が、誰かの目にこう見えたというより、わたしたちにこう見せるためにこう見える、という、謂わばわたしたちにダイレクトに届く強さを持ちえている。といいつつ、教室での場合などはキョンの主観的でもありますから、二重に、「ハルヒ」が、その感情が、圧倒的に迫ってくる。
アップの持つ圧倒性。その感情――表情で押し切られてしまうような感じ。ハルヒの(上にあげた画像のような感じの)どアップが、今回のみならずこれまでも多かったですが、それはこの圧倒さにもかかるんじゃないでしょうか。否定にしろ、肯定にしろ、指示にしろ、そのどアップの感情が、論理を飛び越える。


「画面の真ん中に顔アップ」といったら、今回は他にこのふたつ(といってもあんま顔のアップじゃありませんけど)でしたが、これもまた、なんか押し通される感じではありました。前者の大みくるは、別れるところ、「さよならキョンくん、またね」のところ。詳しい説明も何も無いのに、ここでドンとこられたら、なんか論理は置いといて納得してしまう。後者の長門は「今回は特別。エマージェンシーモード。よほどのことがないと……」のところ。さらに目のアップにまで辿り着くのですが、これが特別でエマージェンシーだということが、その特別でエマージェンシーなカメラの動きだけで論理を飛び越えて説得させられてしまう。

ハルヒの「有無も言わさぬ」強引な肯定も否定も企画も指示も、この「どアップ」により、本当に「有無も言わさぬ」説得力を見に付けているのではないか、とか、そんな感触がしました。

なぜ未来人は朝比奈みくるを担当に選んだのか

「かわいいから」です。以上。
いやなんか今回の見てたらマジでそうなんじゃないかと思ってしまいました。まあそもそも、未来人サイドのハルヒ担当者(という言い方は変かもしれませんけど)の選択が、本当に選択できたものなのか、それとも運命的に決定されてしまっているものなのか、卵が先か鶏が先か(タイムパラドックスの整合性的な意味で)の円環はどこで閉じてるのかそもそも始まりとかあるのか、といった疑問がありますけど、それを措いといて、とりあえず、もし、未来人側が涼宮ハルヒの担当者を主体的に決めれられたとしたら。

みくる「お願いです……今は何も聞かず「うん」と言ってください……」
キョン(かわいい)
キョン「えっと、……じゃあいいですけど」
みくる「本当!? ありがとう……」
キョン(かわいい)

可愛いは正義という言葉がありますけど、マジでそれすぎないですか、コレ。
もうなんつうかキョンくん、かわいいから何でも許すしなんでも認めてるじゃないですか。かわいいからいいよ、かわいいからアリだよ、的な勢いで。”かわいいから俺は追及しないでイエスと言っちゃうよ”。
これがみくるじゃなくて古泉だったらと想像してみてください。こんなことありえませんよ。

古泉「お願いです……今は何も聞かず「うん」と言ってください……」
キョン(かわいい)
キョン「えっと、……じゃあいいですけど」
古泉「本当!? ありがとう……」
キョン(かわいい)

ありえねー! 顔を近づけるな息を吹きかけるな気持ち悪いですよ!
みくるのときみたいにすんなりとは行かないでしょう。理由を教えろとか説明しろとか、そういうのを要求してもおかしくない、いやしないわけがない。かわいいみくるにはもうかわいいというだけで肯定してしまいかねないですが、相手が男だったら! かわいくなかったら! そのすんなりさは消えてなくなるでしょう。
未来人側がもし選んだとしてみくるを選んだのは、かわいいひとを選んだら、かわいいは正義の力で、訊かれたくないこと・言えないこと(禁則事項)を逃れやすくなるからではないでしょうか。
でしょうか、っていうか、むしろ逆で、結果論的にそうなってる感じですけど。
かわいくて、ちょっと天然ぽくて、頭も良さそうでなければ、強い追求から逃れられる可能性が高い。とか。この人に聞いたら可哀そう、この人に聞いても無駄かも、みたいな発想を抱かせやすい。とか。
逃れる技術としての朝比奈みくる

たとえば大みくるの服装なんかは、まさにそんな感じがするんですね。何あのミニスカとか、明らかに視線誘導じゃないですか。身体のラインを隠さないこの服装とか、どう見てもそこに気を逸らすためのモノじゃないですか。なんだこのけしからんの。つか今回、他の制服のみんなも、スカートの丈が短くてなんか怒りを覚えたのですけど。なんかそこに目線がいっちゃうじゃないですか。いっちゃうんですよ。普通いっちゃうものなんですよ。うん、まあ、普通かな。いや慣れればすぐに気にしなくなると思うけど、久しぶりにハルヒ見たから。それで。それでなんですよマジで。ともかく。それがもうなんというか、物語への集中力を欠かせる。映像への注意力を(そこに一点集中してしまう分)欠かせる。こっちの視線と注意力が大なり小なりそこに誘導されてしまうのです。それと似たような効果を、大みくるの服装は兼ね備えていると思うのです。ちょっとばかしは。
それはほんのちょっとかもしれないけど、逃れる効果をもたらしているものなのかと思う。


ということで、今回はおわりです。