最近の「けいおん!」を見て思ったこととか

最近は憂の可愛さに脳味噌がやられてしまいそうです。

やべーよ! 特にこのお姉ちゃんとラブラブな様子! なにこれ! 死ぬんですけど!
しかしこういうのを「こういう風に描くだけ」というのが、『けいおん!』なのかな、などともわたしは思ってきてます。
つまり。この仲良し描写を見て、わたしたちは色々と好き勝手に思えるわけですよ。単純に「仲良しな姉妹」と思ってもいいし、姉妹というより「友達」的な仲良しさをそこに見ることもできるし、「百合」みたいな妄想を抱くこともできるし、百合というより仮想的男女間の「恋愛感情」的なものを見い出すこともできるし、親子的な「愛情」だったり庇護欲だったりを感じ取ることもできる。つまり、何にでも……というと大きく書きすぎかもしれませんが、しかし、色んなものに「見える・見ることができる」のですが、重要なのは、作中においては「何でもない」ということなんです。
作中では、とりあえず見た感じニュートラルに「姉妹」ですけど、↑に挙げたような「見い出せるもの」は、直裁に否定されてはいない――もちろん、肯定もされていませんが――からこそ、勝手に、そう「見い出す」ことができる。あくまで勝手に、本当に「そう」とは思わずに、謂わばその見た目から「そうである」かのように見るだけ。
これは紬の百合(?)妄想も同じですね。
あれは本来別に百合でも何でもないものに、百合的な(ムギの場合は百合というより、手と手を取り合ったフォルム・シチュエーションなどのただ見た目の美しさにそういう感情を抱いているかもしれませんが、一応便宜的に百合的と記します)妄想・妄念を抱いているのですが、それってつまり↓

第5話で出てきたこの絵、こういう見方なわけです。そのままではなく、何かを通して見ている。それは決して正しくはないのですが、その人にはそう見える(そう見ることが可能)なわけで、そしてそれがなぜ可能かというと、先にも記したとおり、作中で何かが肯定されてなければ否定もされてないからでしょう。
そういう見方に、肯定されるほどの根拠は当然ないわけですけど、否定されるような根拠もまたない。描かれているものから、お話から、感じ取った関係性から、描写から、そう見える――見ることが出来る。
けいおん!』というのは基本的には何かを肯定して何かを否定するようなことがないのではないでしょうか。実際に、善し悪しは当然ありますし、嫌いなこと・良いことは当然ありますけど、作品内においては、許容できないほどの否定も全肯定して標榜するほどの肯定も、ほとんどない――あるいは目立たない。澪の恥ずかしがり、歌いたくない服着たくないも、何だかんだ言って(作品においては)許容されている。目指せ武道館も、目標ではあるのだけれど、まったく目立たないでひっそりとしている。
たとえばですね、ムギが「みんなと一緒のことをやりたい」みたいな指向を持っていて、それは第一話のポテトの件でセリフ化されてましたが、そうなるとわたし達はムギの一挙手一投足に、そういう要素を見い出せるようになります。たとえば今回でいえば、メイド服で演奏はじめようとした時の「そでが……あ、大丈夫か」のところとか。あるいは馬とびのときの「つぎ、ムギ!」と言われた時のあの嬉しそうな表情とか。そういったものは、「みんなと一緒のことをやりたい」から来ているのかなぁとわたしたちは思うのですが、しかし「絶対にそうだ・本当にそうだ」といった肯定はなされてないわけですね。それを輝かせるような大きなエピソードがあるわけでもないし、それをとても目立たせるように描いているわけでもない。「そでが……あ、大丈夫か」は、十中八九「みんなと一緒」から来てるんだろうなぁと思えるのですが、しかし絶対にそうとは言い切れない。もしかしたら、なんか、ただの勘違いとかかもしれない。

この(直裁には)否定されず肯定されないというニュートラルさが、そういった「見方」を許容するものになると思うわけです。描き方において絶対的な偏りを殆ど見せないから、どれもがありえないけれど同時にありえている。そもそも――特に序盤なんかは――背景などに派手な変化(非リアルなもの)をあまり見せず、そういった点で非常に、作品から確定させられてない、固定されてない、何かしらの「見方」を許容するものでもありました。
ということで、この「見方」の許容っぷり、何かしらの妄想を妄想としてそして自分のものとして(作品から肯定されてはいないので)楽しむことができるこの肯定/否定のできるかぎりの薄さは、『けいおん!』を楽しんで見ることの一助にもなっているのではないかなあとか思いました。