化物語 第1話 第ニいんしょー

つきもの――憑き物。
アニメ化に、原作からの変化は”つきもの”であり――”憑き物”でもあるのだけど。
その結果に出来上がる”物”は、異なる輝きを放つ大いなる”別物”である。
怪異に憑かれた人間が、憑かれる前とは別人になるように。そしてどちらもが、それぞれ固有の魅力と価値を有するように。このアニメにも、原作とは異なりそして固有である、魅力と価値を有している――そこに憑いた結果。
まあ、原作のキャッチコピーに絡めた戯言ですが。
如何様にも言い換えられますが。
如何様にも判断できますが。
いずれにせよ、異なる。
異なる意味がある。異なる価値がある。異なって面白いし、異なって面白くないし、異なって楽しいし、異なって楽しくない。
その差異は憑き物だけに還元できるものではなく、分割して分析できるものでもなく、総体としてのそこに在るものですが。
足し算や掛け算で作られたものではなく。引き算や割り算で解を導き出せるものでもない。
だから、具体的には、憑いてるものなんて無いんですけど。
原作に何かが憑いて出来ているわけじゃないんですけど。
原作と異なる一個のアニメがあるだけなんですけど。
原作は原作として一己あるだけで、アニメはアニメとして一己あるだけなんですけど。
それ故に、かつ、それでも。
両者を比べれば異なっているし、両者を比べなくても異なっている。
それぞれに、それぞれが、それぞれで、在る。


とまあ適当に前置きを終えたところで、『化物語』第1話の感想とか何か書きたいんですけど。あ、第二いんしょーってのは、第一印象じゃなくて、二回見たからって意味です。しかしね、んー、どうしましょうかね。
僕は何でアニメの感想とか書くかっつうとさ、ただ面白いのがムカつくからなんですよ。面白かったらさ、どうして面白いと自分が感じたのかの理由を知りたいとか思いません? だいたいにおいて、無自覚に、無意識に面白がってるわけじゃないすか。面白がってる時って、「おお、○○だから面白い」じゃなくて、まず「面白い」という感情が先にあって、その理由付けは後からやってくるじゃない。そいつがムカつくんですよ。俺の無意識だの無自覚だのが勝手に面白がってるのが。そいつらが、俺の意識だの自覚だのを疎外して勝手に面白がってるのが。俺の意識だの自覚だのにも面白がらせろ! というムカつきの元、俺が何故面白がったり楽しがったりしたのかを解明しようという試みが僕の感想の基本的な方針なんですがね、あーそれをいちいちブログに書いてるのは、そういうインセンティブがないと、考えること、そして何より言語化することって結構疲れるから、精神が疲れるから、何かに憑かれでもしないとやってらんないくらい疲れるから、つかれる前に、別にいいや、言語化しなくていいやって諦めちゃうからです。
んとまあ、そんなわけで、俺がなぜ面白がってるか、楽しがってるかを語っていきたいと思う、のですけど。
わからん。
化物語』に無関係なここまでの前置きの異常な長さからご推察されるかと存じますが、まあわかんないわけです。何だろうなぁ、これ。
冒頭。
映されるのは、非自然的な鳩と、非機能的な時計。
そして荘厳な階段と、壮大な戦場ヶ原の落下。
まるで非現実的な空間で非現実的な出来事が起きているかのよう――ここだけなら、ありふれた学校、ありふれた世界、ありふれた落下ではない。
まるで「異常」。
でも実はここだけなんですよね。冒頭から超すげー階段が出てきて超すげー落下が起きて、えー何この学校信じらんねえー何この落下ヤバすぎっスよ――という感じ、なのだけど。実はここだけ。ここ以外に描写される限りにおいて、学校は普通の学校であり、あの落下のような現実では起こらない/起きたら大事(おおごと)であるアクションは、無い。戦場ヶ原の文房具のように、大げさなアクションはあるけれど。大ごとなアクション――身体の動きは、無い。
ならばここが「異常」なのは、つまりこれが「異常」だから。
世界(学校)が異常である。身体(落下)も異常である。というのも、そも、この出会い自体が「異常」だから。異常のはじまりにして、これ自体が異常にして、そしてこの異常な――怪奇な、怪異な、お話の、はじまりである。だから異常。異常へと、怪奇へと至る入り口は、それ故に、正常、正気から明確に半歩踏み出している。
分かりやすくもう一つ「異常」だったのは、忍野のトコへ向かう時。
冒頭の落下を除けば、教室は普通だし、廊下は普通、階段も普通、学校も普通。正常。その後の町の風景も普通。民家もビルも塀も空き地も道も河も、異常ではない。普通。正常の範囲内。
忍野の住処の元学習塾になると、少し変わる。少しおかしい。目立つのは「立ち入り禁止」「危険」などと書かれた看板。目立つっていうか、めちゃくちゃある。めちゃくちゃ沢山ある。どんだけ立ち入るなっつうのか、どんだけ危険だっつうのか、ってほど。ただし翻ると、「立ち入り禁止」「危険」の看板が乱立しているということは、”ここはまだ”危険でもないし禁止されてないということ、そして”この先に”危険があり立ち入りを禁止されて然るべきものがあるということ。
中に入ると、ちょっと異常。いや、普通の意味でも既に異常じみているのですが、そこに、やけに強調された赤とか、不自然に存在する白とかの色彩が混じる。
そして足を踏み入れ、忍野の元に向かう途中は、「真に異常」。フィルムのようなものからより混沌として抽象的としてそのものを描かないようとして言語で表象されるようとして着々とかつかつと質実に異常で怪奇的に描かれている。
ここも同じく、異常への入り口。怪奇なもののはじまり。
世界自体は異常じゃないのかもしれない――というか、恐らく、てゆうか、(戦場ヶ原らがノーリアクションなことから)確実にそう。忍野の元に向かう途中は、まともではない、「異常に」描かれているけど、戦場ヶ原や暦は、異常な世界を歩いているわけじゃなくて、学習塾の廊下や階段が異常な空間になっているわけじゃなくて、ただ表現が、カメラに見えるものが「異常」である。ここが入り口だとすれば、この先に出遭うものも同じ。見るからに異常じゃなくても、異常である、または、本当は異常じゃないものも、異常で/になる――あるいは、本当は異常だけど外からは異常に見えないものも、実は、「異常である」、かもしれないということ。戦場ヶ原ひたぎのように。阿良々木暦のように。
憑き物というのは、上から塗るわけでも、外から足されるわけでもない。憑いて、憑いた先は、ひとつの総体としての、新たなそれとなる。その総体を外から見て、これが異常、ここが憑き物と、簡単に判別できるものではない。癒着して、固着する。総体となる。要するに、たとえ怪異は消えても、怪異に憑かれてた時間が巻き戻るわけではない。それは総体マイナス怪異ではない、ただ怪異が消えただけの総体。

なんか話がずれてますので戻すと。明らかな異常はこのふたつ。あーあの、「文字表現」を抜かすとですけど。
どちらもが、異常の入り口、怪奇のはじまり。だから何だー、なんですけど。これで俺の面白さは語れない。ただ”明確に”、乱雑に異常や怪奇が乱立しているのではなく、映像において氾濫しているのではない。原作と比べて……というわけじゃないんですが、原作読んでる自分としては、そんな気持ちなくても勝手に原作をある程度参照してしまうのですが、まず感じたのは異常なまでのシリアスさでして、それはこの辺にも依るのかなぁなどと思ってもいます。微妙な浮わつきがない。いやまあ先に進めばわからないですけど。八九寺とか出てきたらどうなるか分からないけど。八九寺の出番は第3話くらいでしょうか。早く出てきてください八九寺。

影。影が顔を隠す。とにかく隠す。もちろんちゃんと分別された上でのとにかく。
脅迫時の戦場ヶ原の顔、「戦争をしましょう」の戦場ヶ原の顔、初登場時の忍野メメの影に隠れてはっきり見えない顔、対面する暦とひたぎは影に隠れながらも顔は見える、そして下げた頭は影から抜ける、影に入り込みっぱなしの忍、「おもし蟹」説明時の身体の後半分が影に隠れたメメと、影に隠れていない暦アンドひたぎ。「被害者ヅラが気に入らない」の時のメメの顔。
隠されているのは何か。見えないようにしているのは何か。隠しているフリをしているのは何か。見えないようにしている素振りをしているのは何か。
「何か」もなにも、見りゃわかるのですが。
隠しているものは「無い」。ただのヴェール。敢えて隠しているものを挙げれば、その理路。その言葉、そのセリフ、その行動をする理路。隠してはいないけど、別に、明らかにされていない。明らかにされていないから、明かりに照らされていない。何故戦場ヶ原はこんなことするのか、メメは何者なのか、戦場ヶ原の(怪異の)理由は、「おもし蟹」を知っているメメのそのバックボーンは……そんなところ。
隠しているわけじゃないけど、明らかに宣言しているわけじゃない、理路は影に潜まれている。これらが重みを語ってる。
これ以外も、そうだけど。
一挙手一投足が、そうだけど。
たとえば、戦場ヶ原の、この影が。その動きの鋭敏さが。暦の提案を聞いた時の階段を踏み込む足の描写が。それらが。彼女の「重み」を語っている。
怪異に憑かれ、怪異と共に生き、怪異と合わせて「今の戦場ヶ原ひたぎ」であるところの戦場ヶ原ひたぎの重みを、決してセリフとして言明されていなくても、決して表情に表現されていなくても、それらが、物語っている。

そういうところが、自分にとっての面白い理由でもあるんでしょうかね。セリフ以外、表情以外がかく語る。表現や抽象や彼女らと関係ないもの/自身のものではないものが、かく語る。それらは、セリフや表情と比べて直裁でないからこそ、決して彼女らの有意識的なもの・自発的なものと限らないからこそ、逆に大いに語る。無自覚的なもの・無意識的なものを語っているように見えてしまう。
非自覚的なもの・非自発的なものの語り――それは正しく語りとは言えないかもしれないし、そもそも彼女たち自身の語りとも言えないかもしれないけれど、その、まるで憑き物のように、外部にあって内部を語るものが、今のところ、面白い。きっと。