「てとてトライオン」雑感 

てとてトライオン!  初回版
えーっと、昨日「その1」とかいって上げたけどやっぱやめました! ひっぱる内容じゃないし、分割するほどの内容でもない。ということでね、「その2」以降もこっちに纏めました。昨日の内容もそのまま残ってるけど。そんなわけで、ネタバレです。


ダブルミーニング

誰もが思い浮かぶダブルミーニング。「手と手トライオン」であり「てとてとライオン」であるんだろうなぁと。そういえば昔はてとてとオンラインとか読み間違えてたぜ!(どうでもいい)
「手と手トライオン」というのはまあ、説明いらないというか、まんまですよね。僕の手、私の手で、トライオーン! 自己の身体とその外側を繋ぐもの。外部に最も近い内部、自分の最果て。
「ライオン」というのは勿論、獅子ヶ崎のこと――獅子のこと。てとてと。「手と手と」であり、一歩ずつ歩く時の擬音「てとてと」である。「獅子ヶ崎の声」編の最後がそんな感じ。手と手を繋いで、てとてとと繋がる、トライオン、Try On。 一気に問題解決、全てが解消、なんてことは無いけれど、「てとてと」の擬音通りそれは一歩ずつだけれども、それは、着実な歩み。「手と手」繋ぐ Try On で、ライオン獅子ヶ崎は――そこの生徒は、獅子ヶ崎トライオンのメンバーは、一歩ずつ着実に歩いていく。
なんかそんな感じ。

手と手

「手と手」。
あくまでも「手と手」である、それは、”繋がれるけれどひとつではない”、または、”ひとつだけど別々である”ということ。身体的に、しかも一時的に、繋がるだけ。心と心が一つになったりとか、そういうわけじゃない。自分の外部に最も近い内部は、他人からすれば、いずれにせよ外部である。自分の最果てと他人の最果てが繋がったところで、そこより先が「繋がっている=ひとつである」わけではない、けれど、「繋がっている=伝わっている」わけではある。手と手であることによって生じる/それが象徴する不可能性は、別のことの蓋然性を、翻って示している。この辺はどうも、書いてもこのブログに上げる感じの内容じゃないので(質の問題じゃなくて気分/キャラの問題)、えーそんなわけで、「月刊ERO-GAMERS(http://www.ero-gamers.com/)」の方になんか書いたりしました。7月中旬くらいにはアップされるらしいですね。

恋愛感情

恋愛感情の振れが面白い……いや面白いって言って良いのかわかんないけど。ヒロインシナリオ4人全員、大なり小なり(夏海が大なりなら鈴姫が小なりとかだけど)、恋愛感情に至る理由、特に主人公がその娘のこと「好きだ」と思う理由、というかその理路が、なんつうか、無い。薄い。んーと、ある種ね、ぶっちゃけていうとね、「この娘である」必然性が無い感じ。決定的な何かが無く、一番近くにいたから程度の感覚で好きになる。
僕はこれ否定してるんじゃなくて肯定しています。なんだっけなー、ゲーム版のCLANNADかなんかで、「朋也が渚のことを好きになる理由がわからない」みたいなのが地味に話題になってたおぼろげな記憶があるんですけど。や、CLANNADじゃなかったかも。おぼろげすぎてよくわかんね。まあそれはいいとしましてね。「誰かが、誰かのことを好きになる理由」。それが決定的には描かれないエロゲー/ギャルゲー。『てとて』においては、特別な何か――決定的足る何かは、殆ど全く無い。唯一鈴姫にだけ強く特別な理由が――特定の理由が明確に分かる感じだけど、たとえば夏海シナリオとか、なんかもう適当かと思ってしまうほど「そうだ、俺は好きなんだ」状態に陥るじゃない。いや夏海シナリオに限らないんだけど。決定的な理由がない。特別な理由が無く、特定の理由が無い。ただ近くにいたから。相性がいいから。向こうもこっちに好意を抱いてくれてることもプラスになって。
でもまあ、実際問題そんなところだと思うんだよね。理由に回収されたらそれはそれで別物になってしまう。漫画『プラネテス』の最終回を思い出しました。
「あれのどこが気に入って結婚したの?」「……どこ? え、や、どこってことないですけど」「あらやだ!『彼の全てが好きなの』ってこと?」「て言うか…んーーー」
「結婚しようって言われたとき他に相手がいなかったし……」「……へ? つまり先着順てこと?タナベ」「んー、まー、そーですねー……」「…………ハチマキのこと……愛してる?タナベ」「? はい、もちろん」
(いちおうネタバレなんで白字)
つまり、理由というのは後からしかやってこないということ。特定の理由がなければ、まるで誰でもいいかのようじゃないか、必然性がないじゃないか、交換可能じゃないか、と思ってしまうかもしれないけれど。逆に。特定の理由があるということは、その「特定の条件さえ満たされていれば」、誰でもいいし交換可能だし、その条件だけが必然だということ。理由に回収できない――分節化できない、分割できないものこそが強度を持つ。理由がないというのは、よく言われることだけど、「それだけで強い」。いちいち好きになる「きっかけ」のエピソードなんて無くていい。「きっかけ」のエピソードがあるということは、それは、その「きっかけ」さえあれば、その人じゃなくてもいいかもしれないということ、また、その「きっかけ」がなかったら、その人であることがなかったということ。

視点

つまりこの地点が逆にその消滅そのものを示すので、主体がまなざしの地点に置かれることはないし、自らを置くこともできない。まなざしに気付く瞬間、完全な視覚領域であるイメージは恐ろしい他者性を帯びる。イメージは「自分に属している面」を失い、突如スクリーンとしての機能を引き受けることとなる。

鈴姫シナリオの描写などから、プレイヤーの視点=一般生徒、というのはどうなのだろうか。「どうなのだろうか」ってのは、それ微妙じゃね――あるいは、鈴姫シナリオ(の当該箇所)以外は微妙じゃね、的な意味で。そもそも、素朴に考えても、真面目に考えても、俺らは一般生徒じゃない。明らかに一般生徒が知らないことを知ってるし、明らかに一般生徒が体験していないことを体験している(ゲーム上でね)。台風対策、学園復旧、地下道彷徨、遊園地探索、旧校舎冒険、あるいは、店でのバイト、生徒会室での会話、自室、他室、恋愛、……どうも一般生徒で見るとちょいずれるんじゃないかなーっていうか、そう読み解く必然性が鈴姫のそこ以外にはどこにもないかなー、とか(迂闊な発言)。
まあなんというか、否定の論証は疲れるしヤダからしないで、個人的に思うところを話すと、『てとて』のプレイヤーの視点は慎一郎の親父(宗鉄)かなって感じがします。うん、まあ、これは、”たとえば”の話なんだけど。
あの親父のことだ。『俺で遊びながら、俺を遊ばせる』くらいのことは考えていてもおかしくない
慎一郎の親父ってのは、”ここに不在の楽しんでいる者”です。ならびに”彼らを楽しませていると「彼らが勝手に思い込んでいる」者”でもある。
慎一郎を獅子ヶ崎学園に送り込むという行為と、我々がゲームを開始するという行為。親父が決して直接的な介入をしない(できない)ように、私たちも直接的な介入(選択肢)はしない・できない。それでも、親父が慎一郎を遊ばせながら、自分も楽しんでいる(と慎一郎は予測)ように、俺らも慎一郎を遊ばせながら、自分も楽しんでいる。
まあ俺らが楽しむ視座としてはバッチリなんじゃないでしょうかねー、とか思ったり。あと宗鉄さんって「実体ない」ですからね。どんな人間だかさっぱり不明。いちおう慎一郎くんとかてまーによって語られてるけどさ、それは実体じゃなくて「彼らの中の/彼らが思う宗鉄」ですしね。性格とかに関しては、客観的なことが語られないじゃない。エピソードとかは語られない、慎一郎くんとかてまーとかの「俺は/私はこう思う」という主観的なことしか語られない。逆に「発明」なんかは、客観的に顕現している。つまり、実体は無いけれど、影響力として、存在として、色濃く覆っている。彼が(楽しんでいるのは前提としてあったとしても)慎一郎くんたちの、ここでの行動や出来事なんかを、どう見ているか・どう見るかが不明のままなんですね。そこが不明だからこそ僕らの視座になれやすい。そもそも学園に慎一郎くんを送り込んだり慎一郎くんのスキル体力知力だったり首輪だったりというレールは親父ですからね。圧倒的な力をこっそりと見せ付けている。

その理解だと、最後の「獅子ヶ崎の声編」の存在がすげー綺麗にまとまりますね。「獅子ヶ崎の声」もまた、親父とほぼ同じなのは言うまでもないでしょう。
俺たちが好きだから一緒に遊びたかった。ただ、それだけ。でも俺たちも全力で遊んだからおあいこだ。そっちだけ楽しませてたまるかってんだ。(「獅子ヶ崎の声編」より)
色々トラブルを引き起こした要因的(あくまで的)でありながら、そこに悪意はなく、そしてそれに直面する慎一郎らにとっても程度さこそあれ楽しめるものと解釈されており(「起こってしまったトラブルを逆手に取り、トラブルや修復の過程さえも楽しむ。そう考えることは出来ませんか?」(手鞠シナリオ))、当の獅子ヶ崎の声本人(?)としては、そのセリフの通り、獅子ヶ崎学園のみんなと遊びたい、遊んでほしい、遊ばせたい――宗鉄さんと一緒ですね。実体の無いところも。宗鉄さんが影響を与えながらもここ(獅子ヶ崎学園)に存在していないけれども獅子ヶ崎学園のものから存在を認知されている者であるのに対し、「獅子ヶ崎の声」は、影響を与えながらここに(ひっそりと・不可視で)存在しているけれどその存在自体は(獅子ヶ崎の声編まで)認知されてない者である。なかなか相補的でありながら、どちらもしっかりと存在できない、どうしたって「”彼らの”外部である」(獅子ヶ崎学園の外部、獅子ヶ崎学園生徒たちの外部、獅子ヶ崎トライオンの外部、恋愛する二者間の外部、など閾は時と場合で様々)という点は共通しています。
プレイヤーもまた、同じく外部。ここでは――そうっすね、ちょっと言いすぎかもしんないですが、言ってみましょう。プレイヤーの視座が「宗鉄」「獅子ヶ崎の声」であるのは、獅子ヶ崎学園のみんな(少なくとも慎一郎たちメインキャラ)から見れば、「楽しんでいると想定される他者」であり、また、「自分たちを楽しませていると想定される他者」であるからこそ。これは外部じゃなきゃ不可能ですね。でも完璧な外部でも不可能。外部でありながら内部の一部のような存在でなくてはならない。たとえば鈴姫んとこ足がかりに「一般生徒」と見る向きも、これが前提になっているのではないでしょうか。「ひゅーひゅー」と揶揄する存在とは、つまり「彼らを見て楽しんでいる存在」である。彼ら二者間では外部だけど、でも、このゲームの・獅子ヶ崎の内部ではある。でもそれ、実体もって描かれてしまったら逆にどうかと思うんですよね。その”限定的な”「まなざし」は、私の「まなざし」足りえる幻想を保てるのか。揶揄以外のあらゆる「楽しみ方」をも許容できているのか。いやまあ、そっちも「ありえる」というか――同一化としてありえるというか、そんな感じもいいと思うんですけど。これは厳密さが欠かないとありえない領域ですし。
さてしかし、それは逆にゲームが終われば用済みなわけで、だから最後の最後に「獅子ヶ崎の声編」があるって解釈もなかなか面白いんじゃないでしょうか。あれは生徒も一体となってトライオンして、みんな一体となった、纏まった、そう解釈できる。そこに――上に記した鈴姫シナリオを足がかりに、「プレイヤー=一般生徒」と考えれば、最後にプレイヤーも慎一郎たちと、獅子ヶ崎トライオンのみんなと、獅子ヶ崎学園のみんなと一緒になった、手と手を繋いでひとつになった、といえる、けれども……実際違うよね。むしろプレイヤーが今からするのは「お別れ」じゃん。生徒たちはずっと獅子ヶ崎学園にいるけど、プレイヤーはこれを最後に獅子ヶ崎から離れる、追い出されるじゃないですか。僕らはあの中には居られない。生徒たち、慎一郎たちの場所には、もう居られない。そしてもう一人居られない人(?)が、ちょうどそのトライオンの瞬間に生まれますねー。はい、「獅子ヶ崎の声」さんです。
ということで、そう考えると綺麗に纏まるというか存在意義が生まれますね。「獅子ヶ崎の声編」の。何故最後にこれがあったか。それは、お別れだから。お別れの、儀式だから。

この状況を楽しんでるのが自分たちだけと思うなよ?
獅子ヶ崎学園の生徒は、いつだってなんだって
お祭り騒ぎにしちまうんだからな!

「獅子ヶ崎の声編」のラスト際のこのセリフ、まるで俺らに向かって言っているよう。「自分”たち”」と複数形なのは、「楽しんでいると想定される者」全てを指しているからでしょう。それはそこにある「獅子ヶ崎の声」だけでなく、どこかにいる「宗鉄」、そして恐らく、ここにいる「プレイヤー」も。

選択肢――決定の不可能性について

主体が誰であり何であるかは前もって決まっていると考えれば、決定というものは存在しないと言いたい。言い換えますと、決定というものがあるとすれば、決定は誰や何かを前もって不可能にするとは言わないまでも中立化するに違いありません。誰であり何であるかがわかっていて、それを知っている者が主体だとすれば、決定は、単なる法則の適用にすぎません。言い換えれば、決定があれば、決定の主体はまだ存在せず、決定の対象も存在していないのです。

『てとて』の選択肢はかなり特徴的で、どうプレイしようが「ふたつ」しかない。二箇所の選択場面に、それぞれ二つの選択肢――計4通りの選択組み合わせがあって、そして、『てとて』のヒロイン(ルート)は4人。つまり選択肢は、「どのヒロインルートに入るか・どの物語をみるか」という意味のものを”一度だけ”選べるものだけであって、しかもかなり序盤で決められる。つまり、もう全くもって言うまでもないけれど、プレイヤーが選択するものは、「どのヒロインルートに入るか・どの物語をみるか」が一回あるだけで、それ以外は何も無い、と言えます。
基本的に八柾さんがおっしゃってるとおり(http://d.hatena.ne.jp/hachimasa/20090706/1246886340)というか、それを見ればまずは十分。
我々は決定する前に既に決定している。そしてされている。たとえば、就職活動なんて、その時に自由な選択があるわけじゃなくて、どの大学に入るか・どういうスキルや資格を持ってるか・どんな経験をしてきたか・どういう性格か・どういうコネがあるか、という、就職活動「以前」に決定されたことによって、ある程度が既に決定されている。そしてそもそもの部分、たとえば「どの大学に入るか」というのも、大学受験時や受験勉強開始時に急に選択できるわけじゃなくて、どの高校に入るか・普段から勉強するか・塾に通うか(通える経済力か)・家庭環境はどうか・自分の性格は、などの「以前」に、ある程度既に決定されている。そしてまた、それらの要素すらも……と、そりゃもう究極的には生まれた瞬間まで、極限的には両親が、あるいは先祖が生まれた瞬間まで、限界的には宇宙が誕生したとことか何かそんな感じまで、延々と続いていきます。
この辺のお話は二つに分けられて、ひとつは、八柾さんが書かれたように「つねにすでに」の決定。その場以前に決定してしまっている、たとえば就職活動する前の大学入試の時点で既に就職活動の何割かを”それと知らず”(知ってる人もいるけど)決定してしまっている――これはもうちょい細かくすると、ぶっちゃけどこまでも遡ることができます。簡単に言うと「運命は性格の中にある by芥川龍之介」。ある状況に置かれた自分が何を選択するのかは、自分の「これまで」(=性格+経済力や技能・人脈・能力などを含めて境遇)に、既に決定されているといっても過言ではない。『てとて』の選択肢に対する解釈はその辺が妥当なんじゃないでしょうか。「この私」が「ある場面」に出くわしたら、その性格や能力・状況や環境などから、絶対にAの選択肢を選ぶだろうというのと同じように、「この慎一郎」が、「こういう場面・状況」に出くわしたら、たとえ選択肢があろうがなかろうが、そういう選択をするであろう。まあ本当に自由な選択なんてさ、本当にどうでもいいことにしか起こりえないと思うんですよね。夕飯なににするとか、そういうレベルでしか、いや――そういうレベルですら、ある程度が、つねにすでに、決定されてるけど。だーまえ先生がファミマのおろしチキンなんちゃらばっか食べるのは、彼の味覚が、嗜好が、あるいはそういうことを明言している態度が、ある程度、既に決定している。
もう一つは、つねにすでに、第一の決定が為されているということ。「決定のコンテクストは決定できない(決定されている) byジュディス・バトラー」。もうちょっと分かりやすくいえば「決定の環境が決定されている」ということですね。あるいは「状況」。ある状況において私は何かを選ぶことができる。でも、その状況そのものは既に、私によって・特定の他者・不特定の他者・あるいは社会や、人間であるという生物学的な理由によって、決定されている。状況そのものを決定することは許されていない。たとえば、日本人である貴方はこれこれこういう職業に就けますよ〜選択できますよ〜といっても、そもそもの「俺が何人であるか」を選択することは(そこでは)叶わない。環境でもいいですけど。「(決定の)現実の内容は二次的なものでしかない byエルネスト・ラクラウ」。

もうちょい踏み込みましょうか。「他人のリアル」。まあ基本的にね、真にマルチシナリオで一回限りやり直しできませんセーブロードもないよバッドエンドでもグッドエンドでもエンディング後にこのゲームは自動的に消滅しますってならまだしも、現在までのエロゲ/ギャルゲの選択肢による決定なんか、とても「決定」じゃないよねとは思いますね。だってあんなの、たいてい正解は一つ――道は(各キャラに)一本しか正解として(トゥルーエンドとして)ないわけで、まああっても数本で、しかもいくらでもやり直しができて。そんな状況で自分が=プレイヤーが「選んでる」なんて言える方がおかしい。勿論「言える」であって、「思える」ではありません。寧ろプレイヤーが選んでると「思える」ようにできている。それはおかしくない。「決定」というものの強制的な関与ですね。
例の如くジジェク印の例え話で、エレベーターのボタン話があって。エレベーターの「閉」ボタン、あれを押しても扉が閉まる速度はせいぜい1〜2秒早まるだけで、殆ど意味をなしていない。しかし、それを押すこと/押さないこと、つまり「選択できる」ということにより、自分はエレベーターの作動速度に関与している、それを決められるという印象を与えることができる。せいぜい1・2秒の変化なのに、それでも自分が「決めている」という、「まやかしの関与」がそこにある。もっと分かりやすい例え話ですと、これは僕のオリジナルですが、「押しボタン式信号」ってあるじゃないですか。ウチの近くにもあるんですけど、その信号、ただの取り外し忘れなのか時間帯(夜中とかは別なのかも)によるのか何なのか知らないですけど、ボタンを押しても押さなくても青に変わるんですよ。しかも、計ったわけじゃないから正確なところはわかんないですけど、目分量だと、ボタン押しても押さなくても、変わるタイミングは多分一緒。多分、ね。もしかしたら押した方が早いかも、なんてことは、僕に限らずあそこを使う人の大半が幻想として抱いているかもしれませんけど。つまり普通の信号機ですね。押しボタンの機械が付いてるけど、付いているだけで何も機能してなく意味も為していない信号機。けれども僕は「押しちゃう」んですよ。意味なんてない、速度は変わらないと分かっているのに。さっさと青になって欲しいから。実質的に自分は決めれないけど、ボタンを押すことによって、「決めている」――自分が決めているという印象を、そこに持っている。持ててしまう。

「選ぶ」行為が、「決める」行為が、実質的には何も選んでなく/選べてなく、何も決めてなく/決められなかったとしても、そういう行為を行うだけで、本当に選んで・決めているように思えてしまう

プレイヤーが選んでいると「思える」のはそこです。道は無限にあるわけじゃなく、正解は僅か限られたパターンしかない、つまり、実質的には何も選んでない・決めれていないけれども、わざわざ「選ばせる」ことによって、「決めている」ように思えてしまう。たとえば3つ選択肢があって、1つだけ正解で後の2つは選ぶとすぐにバッドエンドなんて場合は端的でしょう。この場合、実質的には何も選んでいない――選べていない。やり直しができないというなら、それでも「選べている」と言えるんでしょうが、ゲームは何回でも同じ選択肢にいける、やり直せますからね。結局僕ら、バッドエンドの選択肢を選んでも、またやり直して同じ選択肢に辿り着くじゃないですか。もう飽きた、めんどくせえやめる〜、なんて「ゲーム外の選択肢(物語外の選択肢)」なら便宜的に選べても、「ゲーム内の選択肢(物語内の選択肢)」はひとつしか選べない――つまり、選べていない。つまるところ、正解を「選ばされている」。正解はひとつ、やり直しは可能、つまり、実質的には「何も選択できない=ひとつしか選択できない」のに、選択肢でプレイヤーが選ぶことによって、自分が決めているという印象を、まやかしに持つ。
ここでいう「まやかし」は”実質的ではない”ということで、関与の感触だけは”まやかし”ではありません――だからこそ、本当は違うのに本当かもと感じるからこそ、”まやかし”の関与なのですが。
これが、ここにおける私たち自身を構成していくわけですね。「他人のリアル」。

この項の最初に引用した言葉。あれはエルネスト・ラクラウさんの決定論を受けてのジャック・デリダさんのお言葉なんですけど、つまり、「ある状況に置かれた自分が選択するもの」は、「自分」と「状況」を正しく鑑みれば既に決定されているも同意であり、ならば「決定」なんてものは実質的に無い――これは『てとて』も同じですね。状況・環境・そして自分、全ての要素が完全に分かれば、全ての決定は予測ができる――既に為されている(法則の適用である)。まあ例えるなら、10年前の自分にタイムスリップしてもさ、今の記憶を失くしてのタイムスリップだったら、殆ど全てにおいて、同じ選択をしちゃうでしょう、同じ轍を踏んじゃうでしょう、ということ。だから、慎一郎くんが慎一郎くんである以上、ある状況における慎一郎くんの「選択」は変わるはずがないのだから、選択肢がなくても彼は選択しているし――それは同時に、彼は何の選択もしていない、ただ法則を適用しているだけ、ただ自分を適用しているだけといえる。選択肢が無いというのは、我々に「ない」というのではなく、彼にも「ない」ということ。
ラクラウによれば、「決定(自己決定)」というのは、同一化を経ない限り起こりようがない。まーろくにラクラウ分かってない自分が言うので、勘違いしてるかもしんないですけど、つまり「自分が決定する者にならない限り」決定は起こりえないということですね、たぶん。これまでのお話を見て頂ければ分かりますが、既に「決定済み」――「何を選ぶのかが決定済み」であるのに、それでもなお自分を決定する者だというのならば、「決定する者」に同一化しなければならない――決定は起こりえない。

この辺をエロゲ/ギャルゲに持ってくると面白いんじゃないですかねー。私たちの干渉をどういう意味で取るのかにもよりますけど、そこにおいて私たちは「決定者」である――それに同一化している。これは「プレイヤーである」と言い換えることもできるでしょう。
エロゲ(ビジュアルノベル・ノベル・アドベンチャーゲーム)の選択肢というのは、「間違えない限りにおいて自由に選べる」か、「間違えてもどうでもよいことにおいて自由に選べる」かのどっちかしか大抵なくて。前者は、結局トゥルーエンドは1つか2つで、実質的に何も選べていないじゃんというやつ。後者は、好感度にもフラグにも関係ない、直後のセリフが変わるだけの選択肢、実際的に何も選んでいないじゃんというやつ。……あーごめん、「自由」じゃないや。大事なところを忘れてた。これ、自由な選択肢じゃないですよね、こういう限定条件下ですら。先に挙げたもう一つの方、「状況(コンテクスト)が決定されていて、それは選択できない」というやつ。まず、「何処に選択肢があるか」を、僕らは決定できない。あちらさんの都合で、本当に選択したいところで選択肢が出てこなかったり、本当にどうでもいいところとか、本当は選択したくないところとか、あるいは本当に選択したいところで、選択”させられる”。そして、「どんな選択肢があるか」も、僕らは決定できない。提示される選択肢が、全部どうでもいいものでも、全部選びたくないものでも、全部選びたいものでも、たとえ脳内にはもっと良い選択が浮かんでいても、提示されるもののなかから、選びたかろうが選びたくなかろうが無理矢理、選択”させられる”。選択の選択は選択済みである。そして選択の選択済みの中からさらに選択されたものを我々に”選択しろ”と言ってくる(選択しないという選択を、大抵のゲームは選べない(まあ選べても、実質「選択項目の次のn個目の選択肢」でしかなかったりするけど))。たとえば雑談部分、何を選んでも直後のセリフがちょっと変わるだけのどうでもいいところだからこっちとしてはどうでもいいんだけど……って箇所でも、選ばなければ場面が進まないのだから、選ばなくてはいけない、つまり、強制的に選ばされる。それはプレイヤーのここにおける存在を決定していくものでもあるんじゃないでしょうか。
選択させられる。これは逆から読めば、「選択者にならさせる」。あれ、ならさせるって変な言葉だな……こういう場合、何て言えばいいの? ともかく、我々を選択者という立場に(その時において)立たせるわけです、配置しているわけです。無理矢理選択させられるというのは、無理矢理我々を「選択者にしてしまう」ということです。ここで、これまでの議論とラクラウを引っ張ってくればいい。「決定」というものは実質的には無い。『てとて』の慎一郎がそうであるように、あるいは我々自身が現実にそうであるように、ある状況において我々が選ぶものは/決定することは常に既に決まっている。つまり、普通のエロゲ/ギャルゲ(ループものなどは除く)で出てくる選択肢を誰が選んでるかっていったら、彼らではないんですよ。ゲームの中の彼らではない。主体があるのならば決定はない。まあただ、「正解」の選択肢だけは彼ら(もしくは、ある一つの選択肢だけは彼ら)が選んでるも同義の選択である、とはいえるかもしれません。ある特定の状況で、ある特定の自分が、いつも異なる行動/選択を取るなんて、まずありえない、というか、いつも”同じ”行動/選択を取るでしょう。記憶を失くしてタイムスリップしたら違うこと選べないのと同じ。まー『CROSS†CHANNEL』で七香が「太一だけはいつも行動が異なる」と言ってたとおり、よっぽど精神面が特異な方は別だと思うんですが。逆に言うと、太一以外は、曜子ちゃんあたりは特別かもしんないけど、殆どみんな、記憶を失くしたら、つまり「ある特定の自分」だったら、「ある特定の状況下」で、同じ行動/選択を取っているということですよね、このセリフって。ギャルゲ/エロゲの既読文章――何度繰り返しプレイしてもこいつら同じ言動するよね問題――まあ問題にもなってないけど――を、もし理屈的に説明するとしたら、そんな感じでしょう。主体があれば決定はない。法則の適用、既に決定されている。
そのまま翻れば、決定があれば主体はない。主体は部分的にしか自己決定的ではない。この自己決定は、すでに主体であるものの表現ではなくて、主体が欠如していることの結果なのである。そうである以上、自己決定は同一化という過程をへないかぎり起こりようがない。 / 選択者は完全に一人前の主体たる手段もないのに、主体であるように行動せねばならないアポリアの状況に立たざるをえない。
ここでいうと、つまりエロゲ的に利用すると、エロゲにおける「選択肢」というのは、たとえば神が運命を弄ぶような超越的なプレイヤーの介入であるとみるか、あるいは「選択できる主体」になった主人公――プレイヤーの介入によって、いわば欠如を埋めた、アポリアでなく現時に為し遂げた存在である、とみるか。他にもみれるかもしれない。いずれにせよ言えるのは、そいつはもはや「主人公」である彼とイコールではないということ。決定できるものは、決定者(そのアポリアを達成済みのもの)だけである、それなのに決定しようというのなら、それに同一化するしかない。つまり、つまりだ、結論を言うと、選択をすることが出来る我々は、いや、選択を強制されている我々は*1主人公ではないということ、そして、それ故に、その選択は主人公の選択ではないということ。
他人のリアル。決定が無い『てとて』に描かれるのが他人――慎一郎くんのリアルならば、普通のエロゲで描かれているのは、もはや誰のリアルでもない。というと言い過ぎか。まあ当たり前の話だけど、同時に達成不可能な可能性が同時に達成されるのはメルヘンのなか以外にはなくて、そんな素朴な時点で「彼のリアル」では無いんですが(まあ所謂「真ルート」だけ彼のリアルとかは言えますけど)、同時に、俺が全てを選んだ彼の/他人のリアルでもなくて――決定のコンテクストは決定できない――一部を「決めた」ということもできる、けれども。それはもう、唯一の主人公とは違う、そしてプレイヤーである自分とも違う、他人である。「決めれる」という時点で、それは決定者という・決定者(決定可能な主体)に同一化するというムチャを通した別のモノなのだから――主体があれば決定はなく、決定があれば主体はない――、「決定」の存在は断絶を生み、それはどう足掻いたって他人のものでしかない。”この主体とは違う”。
これは同時に、プレイヤーを「そういう存在に固定するもの」でもあるでしょう。

追記:あ、てゆうか間違いました。勘違いしてました。うっかりしてました。「決定する主体」だった。でも言うことは変わらない感じです。はい。本来ありえない決定があるそれは、誰のリアルだろう? さあねえ、このゲームで描かれた「シナリオ」とか「物語」ってやつじゃない? リアルって思う必要なくない? とか、そんな感じ。

おおー、しかしー、なんか難し系の言葉こねくり回しながらも大したこと言えてない感じでこれは酷いですねー自分。三歩進んで二.五歩下がってる。そもそもここでいう主体って何かをどスルーしてますしね今んとこ。この辺のお話はですね、そもそも自分ラクラウさん全然まだ途中ですし、たとえばこないだ月刊エロゲマに書いたことに絡めたりしながら、いつか、そのうち、続く――と思う。まあ、本当に「続く」か「続かない」かの選択は、自分の思惑に関係なく、たぶんもう既に、決定されているでしょう(うまいこといったつもり)。

*1:選択肢がないゲームは別として。