東野圭吾「手紙」

読みました。
ああ、これはめちゃくちゃいいですね。電車の中で素で(こっそりと)泣きましたよ。しかも3回くらい。
女房を質に入れてでも買え!とか思ったけど、女房を質に入れたりなんてしちゃダメです。そんなことをしても、やり直しは出来ないからです。


以下、作品についての僕的見解(見解といっていいのか…)とか書いてるので、ネタバレといえばネタバレかも。ちゃんとしたネタバレは、反転文字にしてあります。というか、たとえ詳細なあらすじを知っていても、面白いし興味深いし感動できるし泣けるくらいに文章力ある作家さんですので、あんまりネタバレとか関係ないかも。






ジョン・レノンのイマジン。作中内でキーワード的に出てくるのですが。


彼が歌う「想像してごらん」というのは、未来のことです。決して過去を想像することではない。あの時ああしてれば、こうしてれば。そんな想像は何の慰みにすらならない。この作品の主人公である武島直樹も、過去の想像は殆どしない。いや、しなくもないのですが、それは彼にとっても物語にとっても、何の意味も持たずに消えていく。もしもあの時テレビを見ようなんて思わなければ、もしもあの時強盗をしていなければ、そもそも自分が大学に行くのをさっさと諦めていれば、いやそれ以前に、自分が裕福な家庭に生まれていれば―――。過去に対する『イマジン』は、何の意味も持たない。それは現実に住まう僕たちにも同じ。あの時ああしていれば、もしもああだったら、と過去を悔いることも恥じることも悲しむこともあるし、あまつさえ、もし『そうだったら』の未来を、平行世界を想像してしまうこともある。けれど、過去は変えられないもの。そんなイマジンに、何の意味も無い。


『イマジン』とは、過去を想うことではなく、未来を想像すること。
しかし、その未来というものは、すべからく過去の延長線上にしか存在しません。あの時アレが起こったから、そもそもコレだったから、それ以前に自分の生まれがああだったから―――それら過去の延長線上に存在する『今』。そして、『今』行うこと・今から行うこととその『今』を構築している過去によって作り出される『未来』。
『未来』を作り出すのは、その未来を『今』とそれ以前の『過去』であり、
『今』を作り出しているのは、『過去』なのです。

(『今』内に過去が内包されているから、『未来』も今における『過去』の延長線上になってしまうのです)


つまり。
もしも未来に何かを『イマジン』して、それを作り出そうとすることは。
未来を作り出すこと、未来を想像するということは。
『今』(=過去)を受け止めることに他ならないのです。


自分の選択も、不可抗力も、運命かと思えるような出来事も、事故みたいな不運も。どんな出来事であろうとも。
『今』を構築してしまった『過去』を受け入れて、それで初めて、本当に『未来』を『イマジン』することができる。


これはとても重いことです。
過去と今。それがどれだけ不運であろうとも、どれだけ望みと違うものであろうとも、それを真摯に受け止めて、初めて本当の意味での『イマジン』―――つまり、その想像を「実現したい・実現する」というイマジンが出来る。


(ネタバレ反転)
だから、作中の最後で、直樹はイマジンを歌うことが出来なかったのでしょう。

兄貴、俺たちでも幸せになれる日が来るんだろうか。俺たちが語り合える日が来るんだろうか。二人でお袋の栗をむいてやった時みたいに―――。(420Pより)

『未来』を想う、イマジン。その未来は、この今を受け止めた先にある。真摯に今と過去を受け止めて、それでも、それでもなお、こんな未来を想像して、さらに作り出そうなんてことが出来るのか。殺人を犯した兄、それに縛られ続けた弟、それでも望みは二人共に幸せになること、二人で語り合うこと。お袋の栗をむいてやった時みたいに。
そも、二人は断絶されている。そも、お袋はもういない。そも、幸せなんてことを、周りも、そして何より自分自身が、認める瞬間が訪れるとは思えない。そう、これは、困難すぎる想像。過去で作り出された『今』、この『未来』を想像するのは、そしてそれの実現を願うのは、実現したいと想ってしまうのは実現しようとするのは、困難すぎる。大変すぎる。過酷すぎる。ありえない。届かない。
ジョン・レノンのイマジンは。決して想像による慰みではない。想像して、未来を作っていこうという意思。
それなのに。この『今』と『過去』を受け入れて、そんな望みたい『未来』をイマジンしたら―――その望む未来が実現不可能な、まさに『想像』であると分かってしまった。だからこそ、歌えない。彼が思う未来への道は、過酷すぎるから。不可能すぎるから。それはジョン・レノンの「イマジン」ではなく、せいぜいただの慰みにしかならない『想像』だから―――。

(ここまでネタバレ)



未来を『想像』するのは容易い。こうなったらいいな、ああなったらいいな、なんて思うことは簡単に出来る。
でも、未来を『イマジン』するというのは、本当は途轍もなく重いもの。大変なこと。「こうする・ああする」なんて風に、未来を作りだすことは、本当に大変なこと。


(ネタバレ反転)
私は手紙など書くべきではなかったのです―――。
違うよ兄貴、と思った。あの手紙があったからこそ、今の自分がある。手紙が届かなければ苦しむこともなかっただろうが、道を模索することもなかった。(418Pより)

(ここまでネタバレ)


それでも。
たとえ思い―――イマジンとは違っていても。イマジンが無くっても。過去に起きたこと、起こったこと、起こされたこと、起こしたことが、『今』を作り出しているように。これからの未来も、続いていく。
過去にイマジンした訳ではない未来で、直樹が幸せを感じえたように。
この兄弟にも、たとえそこがイマジンの先の未来でなくても。幸せを感じえる日がくるかもしれない。


過去は取り返しがつかないこと。
未来を構成するのは過去であって、もしも取り返しのつかないことを過去に行ってしまったのであるならば、実はそれは、未来も『取り返しのつかない』こととなってしまっている。取り返しのつかないことをしてしまった人の未来は、イマジンではなく、偶然のような産物での幸せを願うしかない。それが唯一の慰み。


だから今、僕たちが未来をイマジンできるということは、実はとてつもなく大切なものなのです。過去が今を縛り、それが未来までも縛っているのは、誰にでも同じ。なんでもかんでもイマジンできる訳では無い。けれど、その過去が作り上げてしまったものの枠内でならば、未来を作りだすことが出来る。時には、その枠を壊せることもあるかもしれない。過去と今を受け入れ、しっかりと未来を作りだすこと。それは途轍もなく重く大変なことだけれど、途轍もなく貴重で大切なことなんです。


というメッセージが込められた「作者からの手紙」が、この本だったのです。









(最後の一行は調子こきました!)(あ、最後の一行だけなんだ)