らき☆すたは日常だから物語がないとかありえねえから。

物語の有無に『日常』『非日常』は関係ありません。
その辺のコンビニに行ってアイス買ってくる、なんて行動にも物語は見い出せます。
別に大きな事件や戦いが無いと、物語が無いという訳ではありません。偉人や有名人にだけ物語がある、ということは決してありません。普通のおっちゃんの普通の人生に、大して起伏の無い日々の生活に、必ずや物語がないかというと、そうではないでしょう。普通の高校生の普通の日常にだって、普通の物語はあるでしょう?「月曜日にジャンプ買いに行ったら売り切れていて何でだ?と思ったら月曜祝日で発売日土曜だったからだ」なんて些細な日常のことからでも、物語は見つけられるでしょう?
物語は見い出すもの、それでしかないのです。物語は何処にだってある。日常だからつまらない、ならば面白い・面白くないは人それぞれですし別に間違ってはないでしょうが、『日常』だからない、なんてのは大間違い。
物語は授与されるモノじゃなくて見い出すものなんです。例えば、なんかのアニメの公式サイトに載っているあらすじを見たときと、実際にそのアニメを見たときに得る感動・興奮は、大抵後者の方が勝るのではないでしょうか。あらすじは良かったけど本編は……みたいな、かえって本編の出来の悪さが示されたり、あらすじ担当者の文才が示される場合もありますけど(笑)。

物語というのは、端的に言うと変化に対する認識です。
ある出来事・事象とある出来事・事象を繋ぎ合わせたものが物語になるだけです。様々な出来事があり、様々な物事が変化する。変化と出来事・事象の『因』と、出来事・事象自体の『因』の紡ぎ合わせ、それを幾重にも重ねたものが『物語』です。
アニメの場合(というか、アニメ以外でもそうですが)は継続的な観測対象となるモノ(大概の場合キャラクター、らき☆すたの場合も同じく)が存在しているので、その観測対象と、彼らが直面する・起こす出来事との因を、作品独自の設定なども加味しながら探し紡いでいくのが物語でしょう。

大抵のアニメなら、
横軸:観測対象(キャラクター)
縦軸:出来事
というようなグラフでも書けば、分かりやすいかな。横に進むほど時間が経過している。出来事は波線形で、出来事自体の重大さ――様々な因を内包している、または様々な因となるかどうか、が重大か否かの判別点――で上下する。

で、大抵出来事の『因』は、出来事・キャラクター・設定などによって構成されたりするのだけれど、「らき☆すた」の場合はキャラクターが恐ろしく重大な位置を占めているから、ちょっと特徴的。らき☆すた内の出来事の因って、色々あるけど一番は「こなたはこういう人間だったから」「かがみはこういう人間だったから(以下のキャラ略)」になってしまう。
「あの時ギアスを使ったから…」とか、「セカンドインパクトが起きたから…」みたいな、出来事や設定が因に深く関わる場合が、前述の『キャラクター』に比べてあまりにも薄い。しかも、キャラクターが「変化して」の因ではなく、キャラクターが「そのキャラクターであったから」こその因。変化に対する認識の時間経過を加味した繋ぎ合わせが物語(と≒)なのに、その「変化」が、キャラクターに対しても作品内世界に対してもあまり波及せず、生じたその出来事内でかなりの部分が完結してしまうのが、「らき☆すた」の物語を非常に狭くしている*1。ただその代わり、キャラクターがとことん因になるので、狭いけど「深い」。ある一点においては、深く見出すことが出来る。

よし、あとでちゃんと書く。グラフも作る。
取り敢えず言っておきたいのは、『日常』『非日常』と物語のある・ないは、全く関係していません、ということです。変化が薄いので物語が見い出しにくい、そして広がり辛い、というのは確かにありますが。

*1:そこで完結せずに広がりやすい(どちらかというと変化に繋がりやすい)一年生などの見知った人同士ではない関係の事象が、らき☆すたの物語においては多少のスパイスになっていると思われ