もってけ!らき☆すた

http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20070921/1190315570
http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20070921/1190315571
昨日の文章に自レス。
あうあうあう。今日になってようやく分かった。
らっきー☆ちゃんねるで言っていたように)こなた達が演じられた役だという作中劇設定。つかさトゥハートなどの設定部分に作中内で言及しちゃうこと。いかにも宣伝なネタもばんばん使うこと。平野綾などの中の人繋がりネタもガンガン使うこと。本編の上部構造的な部分にありながら本編に出たがったりするキャラがいる『らっきー☆ちゃんねる』の存在。現実の白石稔と(らき☆ちゃん)作中の白石みのるココイチネタとか激奏ネタとかでシームレスにしちゃうこと。ロクに声を使い分けずに何十ものキャラの声をあてる立木文彦さんとくじらさんの役割。
主観視点の無さ。カメラの動きの無さ。感情を表すようなカメラの動きの無さ。ツギハギのように飛び飛びな構成。見せてくれない部分の多さ。作中のネタに対する作中キャラの反応と視聴者のそれに対する反応。共感があるからこそ感じる共有の出来なさ。
「見せる」ならば、最初からそう。作りモノである感が滲み出ている構造と、視聴者とキャラクターとの溝を決定的に表している構造。「見せる」ための構造。
『見せる』というのは、ある意味「突き放していること」でもある。『見せる』というのは観測者と対象が十分に離れていないと起こり辛い事象だからだ。

その上での、らき☆すたの物語。ここについては後で書くんだけど、結局のところ「らき☆すた」の物語は、こなたやかがみやつかさなど彼女たちを知る物語に他ならない。事象自体の一番の因が彼女たちにあり、事象も次の事象の因にはあまりならず、彼女たち自身にあまり変化が起こらない。後で書くから理論も分析も中略して、要するに、「彼女たちを知る物語」であるということだ。

結局のところ「らき☆すた」を見て分かるのは、彼女たち自身のことだ。
もってけ!セーラーふく」の『もってけ!』という言葉には、突き放されている感覚を覚えたが、それは「見せる」というこの構造においては当然のことだろう。僕がラストのもってけ!フルダンスにあまりにも「見せている」感じに、「突き放す」感を覚えたのは、つまりこういうことだろう。『見せる』というのは、見せられる方と見せる方に距離があってはじめて使える言葉だからだ。『もってけ』という言葉もまた、受け取る側と与える側の距離があってはじめて使える言葉だからだ。

白石EDに『現実への帰還』という意思が込められている、という話がある。だがそれ自体、最初からずっと「らき☆すた」の中に孕まれていたことだ。らき☆すたにはびこる、「これは作りモノですよ」という匂い。それの一部であり、ラストだからこそ、向こう側からの「最高の一撃」でもあるだろう。

離した上で、見せられるのは彼女たちがどういう人間かということ。そこには…この不親切でその代わり深いこの物語には、受け取り手それぞれでの「構築」がかなり強く働いているだろう(この辺も後で書く)。

突き放して、距離を取る。知るのは彼女たちのことばかり。私たちはおそろしく彼女たちのことを知ることができ、だがここにある距離は、彼女たちそのもの――つまり作品そのものと、自分を、圧倒的に分離させる。それは自分の中に「らき☆すた」をもってきているということに他ならない。(勿論、適当に流し見した人にとってのそれは、それほどの強度を持ってはいないだろう)

つまるところ。「もってけ!らき☆すた」ということなんじゃ、ないかしら。

(詰まる所って全然詰まってないけど。後でリライトするから)