物語についてメモ・いつかまとめてリライトするよ

http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20070922/1190400473
http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20070921/1190315571
まだまだ続くよ。

『日常』ってのが何のことなのかわかった!
変化*1がない(or少ない)時間のことだわ。
毎日学校行って家に帰ってくるだけで何も変わったことの起こらない生活は変化が少ないから日常だし、
毎日殺し殺されを繰り返し仲間はしょっちゅう死んで敵もしょっちゅう死んでても、そこの主体となる人物にとっては<毎日同じこと>をしているという意味では変化がない(or少ない)から日常だわな。
商人にとっては商いをしている普段の生活は日常だし、戦士にとっては殺し殺されをしている普段の戦場は日常なんだな、『変化』という観点で見ると等しく日常で、その渦中の当本人からしてみればそこに『ストーリー』は(滅多に)生まれない、んじゃないかなと。

うーん、でもやっぱ前者と後者は違うと感じがするというか……いや違うな、ストーリー自体はどちらにも生まれる。戦場での大切な仲間との別れに『ストーリー』を見い出すことは出来るし、愛着のある商品が売れたなんてことにも『ストーリー』を見い出すことはできる。
あー、わかったわかった。日常にもストーリーはある。中心に立つ本人、彼に関わる人や物の変化にストーリーは生じる。日常においてストーリーが生じないのは、その<中心に立つ本人>に、だ。変化の無い彼自体にストーリーは生じない。変化が少なければストーリーも少ない。
あ、やっぱストーリーは変化にこそ宿る、つうか見い出せるんだわ。


・『らき☆すた』は日常を描いてるというのは基本的には正しくて、だからゆえストーリーが(すく)ない。1年生組を除くと、変化に乏しいからだ。
てゆうか、「日常を描く」というのが射程に入っているのならば、『変化させない』というのも当然射程に入っているわけで、このあまりの変化の乏しさは、まあ狙ってやったんだろうなぁ、というか逆に凄いことなんだよなぁ。「変化しない」なんて、普通に考えて無理だし。変わらないものなんてないし、変わっていきたいと思わないものもまた、ない。だからこそ……「変わらないということに価値がある」的な方向性で…うーん、いいのかなぁ。保留。
・非日常に対しても、あくまで日常の延長線上であり、日常も非日常も彼女たちは同じに生きる、というのは、「ここにある彼方」「修学旅行」「パエリヤ姉妹喧嘩」などの非日常的エピソード(それまでの無変化に比べ、キャラの心情などに『変化』を読み取れるエピソード)のあとに、どうでもよさげな日常エピソードを入れることからも、そうなんじゃないでしょうか。だからラストのもってけ!フルダンスは日常たる練習で終了し、非日常たる本番を見せなかったのだ。あの先で彼女らがどんな感じに踊るかなんて、「らき☆すた」を24回も見てればわかるだろ?と。


・『出来事』(つまり果)に『因』を(主に脳内で)結び付けてまっとうな作りの物語を自身で構築する、ということが「ストーリーの認識」なのだと思うのだが。(ここでいう『因』とは、直近の因や行動だけでなく、設定・キャラクター・認識出来うる限りの『因』、つまり関係している程度でとても『因』とは呼べないようなものも含めたモノ)
『出来事』を知ることで『因』を知るということでもあります。昨日書いたギアスのとか参考。(あとでしっかり書くけど。)
らき☆すた」においての因は、つまるところ「キャラクター」であると一昨日書いたけど、上の構図を持ってくると、つまり「らき☆すた」ってのはキャラクターを知る物語に他ならない。
いやまあ、そうだよね。変化もねえし。変化してるのはむしろ、それを見たこっちのキャラに対する感情なわけだし。

・で、そんな話が上で書いた
>「らき☆すた」を24回も見てればわかるだろ?
に繋がるのです。「らき☆すた」があれで終わった意味ってのは、そういうことじゃないかなぁ。だから「もってけ!らき☆すた」とか言っちゃたりするのです僕は。


・ストーリーの認識・構築と因果の関係は、我ながら結構いい見方だと思う(笑)。
推理小説ってのは、まあモノにもよるけど、普通『果』を出して、あとに『因』を出す―――というか、果から因に遡るんだね。
誰かが殺されたという結果の『果』から、そこ(果)に至った人物・方法・動機。『因』の方を、逆に辿っていく(ものによっては、さらに舞台や設定の詳細、物語のテーマにまで)。


・『因果』をミスリードさせると、かなり強烈な効果を出せるんじゃないかなぁ、と思った。たとえば「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」を先日読んだのですが、あれの終盤の方で、海野藻屑の耳に関する情報が出てくるのですけど、あれってずっと、山田なぎさが言っていたように「聞こえないフリをしている」のだと思ってたのです。「都合の悪いことは聞き取れない」。自分のキャラ作りのため(因)、それを壊すようなこと・傷つけるようなことを聞かない自分設定(果)。不思議ちゃんキャラを装う(因)ための聞こえないという自分設定(果)。
(僕もなぎさも)そう思っていたのに、真実は全然違う。真相自体はとっぴでもなんでもない、普通に(物語では)あってもおかしくないことだけど、上のようなミスリードをした上で知る真実には、もの凄い威力があった。(そして(僕もなぎさも)と書いたように、なんかここから妙に同一化された)。
スリードも、因果が真っ当に繋がっていればそれを真っ当に信じ込めるものになって、しかもその最初の解釈が、本当の真実に対して不実であったり失礼であったり、とにかく、本当の真実と大幅な乖離がされていればいるほど、真実にそれそのもの以上の威力が加算されるのではないか、と思った。


・あらすじとストーリー
「あらすじ」と「ストーリー」では、大筋について同じなのに得る感動は明らかに後者の方が上。ストーリーはそれを『体験(聞く・見るなど)』することによって見い出すものであり、自己内での構築の過程にこそ感動が宿るのではないか?と思われる。
・たとえば、あるキャラに注目して作品を視聴していれば、そこに比重が置かれた物語が自分の中で構築されるように。注視する点は人によって異なるので、人によって違った物語が認識される。
・そもそも人によって同じものを見ていても認識は異なるのだけど。あ、そういうのが、上で書いたのみたいなものか。趣味嗜好もその一種ではあるわけね、と。
・作品における物語の重み付け、それぞれの出来事の重要度は、恐らく、他の因にどれだけ通じるか、というところにかかっているのではないだろうか。え〜と、たとえば「三国志」において、曹操赤壁で敗れ敗走する、その敗走路での出来事は、「蒼天航路」におけるそれに比べて、格段に重要ではないか、みたいな。「蒼天」じゃ僅かなページでちらっと纏められたそれ、その出来事は、「蒼天」内の他の出来事の因によほど関連せず(少なくとも、蒼天だけしか三国志を知らない人にとって、なんら支障はなく)、それゆえに「蒼天航路」の中での重み付けは極めて軽い、という感じ。(敗走という出来事は重要だけど、敗走路での出来事は重要ではない、ということ。物語内の他の事象に関連していないから)。「三国志」という同じ材料を使った他作品との比較を用いると、『重み付け』の意味がわかりやすいかなと。

*1:ここでいう「変化」というのは、ある程度継続的・持続的な作用をするものね