映像と物語認識メモ

ストーリー考察あきてきた。興味失ってきた。つうか以前書いた内容とか考えた内容を忘れてきた。

それはそうとして、映像作品における映像の役割について。
映像というものは、作品内世界に何の影響も与えずに、視聴者に影響を与えることが出来るのではないか。

・たとえば「涼宮ハルヒの憂鬱」の1話(放送2話)。
冒頭の、モノクロ画面で「宇宙人、未来人、超能力者、異世界人がいると思っていたよ」という過去の空想を語るキョンが、その空想を現実のものと変えてしまうハルヒを視認した瞬間に、世界に色が付くというアレ。
キョンからすれば、ハルヒとの出会いで世界が変わる、ハルヒからすれば、キョンとの出会いで世界が変わるということであり、実際にそうである側面もあるのですが、少なくとも、この時点ではまだ、お互い何でもなかったのです。後に変なこと言ってる奴がいるな、前にどうでもいいクラスメイトがいるな、程度で。
お互いの出会いが、お互いにとって世界に色を付けるほどの存在。そのような『物語の未来』を、視聴者に予感させるような映像であると思います(このシーンは特に音楽も含めてですね。淡々と惰性気味な音楽から、色が付いた場面で一転、アップテンポで楽しげな音楽に変わる)。
ここで特徴的なのは、『物語の未来』と書いたように、これらの映像と音楽が、"この時点での"キョンハルヒの心情を何一つ表していないということです。世界が変わるような演出は、この時点での二人とは、正直乖離している。そういった点からも、未来―――特にこの場合、物語冒頭ですので、物語自体の『軸』を想起させる―――に対する『因』を、このシーンの現在でもこれまでの過去でもない『未来』そのものから持ってきている―――ように、印象付けられる。
さらにこの流れに(出会いから世界が変わる)に併せて、この直後の、「こうして俺たちは出会ってしまった」の台詞と、表示される男子・女子のマーク(トイレの)から、『ボーイミーツガール』を連想できるように。現時点では存在しないものを、未来からもってこれる。進行中の物語世界の外から、物語世界に影響を与えずに、視聴者にこそ影響を与えることができる。かような「物語への影響の与え方」(つまるところ「認識にのみ影響を与えること」)が、映像には存在していますね。*1


・なにも映像だからといって、(出来事〜心情まで含めて)「そこで起こったこと・起きていること」・「これまでに起こったこと」のみしか語れないわけではない。イメージ色が強い映像なんかもそうですね。そこで表現されている『イメージ』が、今ここで起きている出来事・感情や、これまでに起きた出来事・感情のみを表しているとは限らない。物語認識に対する方向付けという意味で、未来(というか、その方向性の先)から持ってきている場合もある。

・丁度昨日、ワンピースの映画「エピソードオブアラバスタ」見たので、そこから。
めちゃくちゃハーモニーを使う作品でもありまして。ハーモニーというのは、タッチを変えた一枚絵をどんっと出して、その瞬間を印象付ける・アピールするためのモノです。
で、このハーモニーって、視聴者にはその瞬間を印象付けてるし、見せ場だ、重要な所だ、という認識を与えているのですが、作品世界内の人物の「その瞬間」にとっては、決してそうだとは限らないのですよね。たとえば敵を倒した瞬間とかハーモニーしてましたけど、果たして作中キャラクターにとってその瞬間は重要なのかどうか。ビビとコーザがお互いを気付けずすれ違ったシーンがハーモニーってましたけど、全てを俯瞰的に見れる視聴者にとっては重要な一瞬ではあるけれど、お互いの存在を気付けていない彼女たちにとっては、(気付いていれば重要なんだろうけど)気付けていないのだから、その瞬間の彼女たちのとっては重要のワケがない(重要だということにすら気付けない)。
場面の重要度の重み付けを、作中の物語世界内を通り越して、作品そのもので付けてしまう。
作中キャラクターを通り越して、また作品内の出来事・キャラクターから分かる(語られる)物語を通り越して、もっと直接的に物語を視聴者に認識させる。そういう表現方法もあるのでしょう。(漫画の大コマとか見開きも、そうであると言えるかも。重み付けの一種。)


・重み付けから同一化へ。たとえば「秒速5センチメートル」の第一話。中学生の男が、同じく中学生の女に会いに行く為に、何時間かかけて電車に乗っていく、というものなんですけど。途中電車が大幅に遅れたり、電車が雪で止まったりします。その描写が、以上に長い時間かけられてて丁寧なんですよ(いや、作品の軸的に、「会いに行く」の困難さを十二分に表すのは当然なんだろうけど)。
行ったことのない地。長い乗車時間。遅れる電車。崩れる予定。ずっと立って、窓の外を眺めている少年。ボタンを押さないと扉が閉まらないという、自分は知らない仕組み。座らずにずっと立っている少年。悪くなっていく一方の天候。まだまだ目的には遠いのに、過ぎる予定の時間。焦燥。雪で止まる電車。座って俯いて、約束の相手に「もう帰っていてくれ」と願う少年。
逐一丁寧な描写、映像が。少年の心情吐露がロクにないのに、少年の心情がこの描写、映像に表れているかのように、それを「感じ取れてしまう」。しかも口から説明されるのではなく、カメラの向こう、視聴者にとって作品世界と(耳以外では)唯一繋がるカメラという『目』から得られる情報で、それを感じ取れる。つまり、追体験しているように感じ取れてしまう。
あくまでもこの少年の行動であり、「自分だったらこうする」がある筈なのに、敢えて少年が心情を語るということを(ほぼ全く)しないから、表現されている映像はこの少年の行動であるのに(またその映像に幾ばくかは心情も反映されているだろうに)、それをあたかも追体験のように、上手いこと乗せられてしまう。や、まあ、心情が吐露されないから、見た人それぞれで帰結点は異なるだろうけど。それでも、なんというか、物語内の重み付け以上の意味が、少なくとも『この瞬間だけは』、少年との同一化がはたされていたと思う。あ、そうだ。心情が吐露されないからこそ、それでいて心情を「想像できるような映像であったから」こそ、心情自体を視聴者側が想像して補完でき、そこに同一化が生まれていたんだ。
あー、なるほど。発露されない心情だが、それを想像できるということは(しかもこのレベルの、単調な感情ではなく色々紆余がある末での心情なら)、それを「同じく導き出せる」という点で、錯覚的に、同一化がなされるワケだ。

*1:ただ、キョン語り部視点が、必ずしも物語と時間軸を同じくしていない点で、この辺の考察、再考の余地はありますが。