昨日の続き。

映像の役割とか昨日書いたけど、別に映像じゃなくてもあるよなぁ〜。

今日読んでた本に丁度良い一節が。桜庭一樹の「赤朽葉家の伝説」66P下段より。

水を飲み終わった万葉は、廊下に立ち上がった。歩き出すと、秋の庭にかすかに風が吹いて、小川の水に赤い葉が一枚、落ちた。小舟のように流れていく。それを見送っているうちに、康幸も豊寿も出て行ったらしく、なんの話し声も聞こえなくなった。
や、なんか妙に、物語の先行きを暗示しているようなテキストだなって思って。
あるいは万葉の心情を暗示しているようでもあるなって。


実際はどうなのかは、まだ70Pくらいまでしか読んでない僕には分からないのだけど、少なくともこの「物語の先行きを暗示しているでもなく」「万葉の心情を描写したわけでもない」この一節から、"それ"を読み取れてしまうというのは、非常に、昨日書いたような、「物語外から物語の未来(の方向性)を暗示する」―――つまるところ『因』として作用する、という点に関して、非常に面白いんじゃないかな、と思う。
実際はどうなのかわからんので保留だけど、これはこれで、と。
あと冒頭初っ端から「幻を見る」だの「千里眼奥様」だの書かれていると、この物語で、なにか不思議なことが起こってもなにもおかしくないな、と認識できる、という点でも因……というか、設定か。物語冒頭は受け取り手の作品に対する信頼度が基本的に強いから、先に突飛と思われかねない設定を表しておくのは重要だと思う。不思議なことがなにも起きない話で、いきなり中盤から「幻を見る」「千里眼」だの言われたら引いちゃうけど、最初からそうだという設定を表しておけば、「幻を見る」「千里眼」だのという同じことでも、まったく違う信頼度でもって受け止められるな、と。あー、最初に行うジャンル付けとでもいうべきか。(はじめて見る作品という)分からないことに対して、こちらが取り敢えずカテゴライズするという感じですね。分からないことに対して、取り敢えず、なんらかの処理をしたいのが人間ですし。