京アニCLANNAD第3回見ながらメモ。

00:01 幻想世界、自分の体〜部屋〜ぬくもりと、ロールする視点。  『僕』の視点。「求めてこの世界に生まれた」。求めた相手を探す視線。
00:28 差し伸べられる手と、それを"掴む事が出来る手"。(当然、2話の「手」の対比)。 「得られるものを犠牲にして」。あるものを得るために、他のものを犠牲にしなければならない → 犠牲の大きさ。他のものをではなく、全てを犠牲に。 想いが届き、それに答えるために、色々なものを失う。
00:47 おいでおいで〜少女の笑顔。
01:25 「ガラクタの体だから、暖かさは感じられないけど」。 身体でぬくもりを感じることは出来ないけれど、心の方は?  肉体的接触が不可能でも、心でその暖かさを感じることが出来るのか?というテーマもあるかも。
幻想世界: 幻想世界のキャラクターの動きがやけに鮮明、やけに細かくかつゆるく(一つ一つの所作を丁寧に)映しているのは、生きるもの・動くものがいない世界の表れ? 終わってしまっている世界だから、終わっていない存在は異質であり、その異質さは動きの表現にも表れている。  (よく動くからこそ、逆に世界の静寂、終わってしまっている感が表現されているとも)
03:15 第3回。話ではなく回。演劇、舞台? Kanonは舞台的、CLANNADは演劇的(メモ)。
03:25 おっさん「毎度毎度まぎわらしいんだよお前は」。 一度しか来てないけど、毎度毎度。描写されていないけど朋也はここに幾度か来ているのか?という印象、さらにそこからおっさんや早苗さんら古河家との親交度の高さを受け入れやすくする措置?  親交度の高さ、実際には古河家が異常なだけなのだが。逆に一度の来訪で「毎度」と言ってしまうとこあたりに、古河の人当たりの良さ――良さというより異常さ――が表れているのかも。
04:08 寝込んでる渚。階段へと動くカメラ〜部屋〜寝込む渚へとロール、渚の顔にズームする視点。(やる必要が全く無いパンのように)恣意的な感じで動くカメラ。ズームの多用。演出を「わざと」演出として見せているという点で、いくばくか演劇的な気がする。
04:41 いくら喋っても口から落ちない、おっさんの魔法のタバコ。フィクション的小道具。 ただ、ここぞという場面(この場合失言だけど)では、落ちる。表現の小道具でもある。
04:50 走っていく早苗さんと追うおっさん。走っていく早苗さんへのアングルが第1話と同じ。  パターン化 → 日常化。 茶番的、小芝居っぽい感じ → フィクション化。 (キャラ間の)お約束で作られた日常がフィクションっぽいという作り。行っていることはフィクションっぽい、芝居っぽいものなのだが、実際のキャラクターの心情はどうなのだろう?パターンでも芝居でもない?ある?
05:00 美人な人登場。初登場は顔ではなく足。笑顔率激高。
05:33 「体が弱いくせに、バカなヤツ…」。 自己犠牲・自分の考えを貫くこと――渚の行動に対する想いを、渚の表情が写されていないことからも分かるように、朋也なりに汲み取る。
05:50 道を歩いていたらいきなり証人になってくれないか。茶番的。俯瞰アングルの中ですばっこく動く人物、少し芝居的。よしのんの台詞も当然。
07:20 オチも茶番というか芝居的。
08:00 朋也や春原が猫に特に反応しないことから、猫は日常的に春原の部屋に居るっぽい。
08:31 岡崎、芳野の歌に聞きほれる? ちょっと不明。  芳野話には一緒に居て、智代話には布団で丸くなっている猫。
08:46 「女が男より強いなんてありえない!」 春原、身振り手振りでの熱演。春原はアホなこと言う時、結構熱演する(智代と対峙するところとかでも)。アホっぽさの加速。過大表現であるからこそのフィクション性――後のシナリオ、いわゆるアフター編に生きてきそう。春原のアホっぽさ、茶番っぽさ。これが許容される甘いメープルな世界。
08:56 カメラ、春原の顔に寄る。
09:48 「やったー、ひっかかったー!」 子供はしゃぎの春原。春原が子供なのはメープルの表現に良いこと。
10:10 智代の蹴り、春原の吹っ飛び。誇張が入る世界。
10:27 手を振る渚。1話、「手を振ってみろよ」の実践。涙の後にもう一度、歩き出せるだけの強さを(少しだけ)得てきているということ。
渚のえへへ笑い: 演劇に対する思いを熱く語った時の笑いが「えへへ」ではない。他人に対する意思アプローチの際には「えへへ」笑い? 渚の今までを鑑みるに、意思が上手く伝わらない、曲解されていた可能性――からかわれたりすることが多い・不器用・世渡りが上手いの対極――が高い。見返りを考えない、裏がないというのが、却って怪しく見られる? ともかく、そういった意思の受け入れられないことを想定した上での、自分を慰める為のえへへ笑いか。多少茶化すことによって、真摯な想いを演技的なものに変化させ、自分の中での重要度を下げる。 や、心の直球だと上手く行かないから、自分の中で他人に伝える為に言葉を換言している上で(しているからこそ)、茶化す意味でのえへへ笑いか?  他人に伝えようとする意思が、伝わらないことが分かっているからこその、「えへへ」笑い。演劇に対する思いの語りは、伝えることよりも自分の中を探求していて自然に出てきた言葉という意味が強いから。  家族に対する「えへへ」笑いや、以後朋也と親しくなった時の「えへへ」笑い。どのくらい使われる・どの場面で使われるかは、これを考察するサンプルになりそう。
10:53 渚の、髪の毛〜ギリギリ目が入るかどうかの画面写り。朋也の背の高さ視点でも?
11:15 涙パン。バカで不器用な優しさ。ボールを持ち、雨の中待ち付ける渚と「同じ場所」の一途さ、優しさ。  同じ場所から歩こうということ。
11:44 渚赤面。
11:56 風子登場。会話聞いてそうな間の無さなんすけど。
12:17 手の痛みを確かめる。ドリブルシュート。前回からの反復。反復による日常性の構築?
12:39 ボクサーとトレーナー。岡崎さんそれ酷いんじゃ…?と軽く心配する渚。朋也に対する現在の理解度、ならび渚の「真に受けやすさ」の表し。
12:55 ワンツーワンツーの異常なアップと、ナイフを認識した瞬間の引き。「いつまでやってるんだ」。(風子の)周りが見えない一途さの表れ。
13:05 残る足音、消える姿。


Bパート

13:22 春原視点。朋也視認に部屋〜朋也へとパンする。 手ブレ。寝起き。立体映像の表れw 春原とのくだらない時間は超大事。
14:50 杏のキック時のガニマタ。ただ可愛きゃいいみたいな造形をしないのがいい。
15:08 「薄い水色のが…」。赤面しつつ、一瞬朋也を気にする杏。朋也がパンツに思い至っていないかどうかが気にかかる。  春原の豪快な吹っ飛び。春原がギャグ時空の存在だということの印象付け。並びに、彼が居ることによるリアルの消失、つまりはメープル。(作品内リアリティは失われていない)
15:45 俯瞰で見る、朋也と杏とボタン。
16:20 詰め込み気味で急ぎ気味でも、コーヒーを淹れるという手間を描写するのは忘れない。
17:00くらいから 演説の練習。「歩く」その「過程」の描写。今はまだこの場所。
20:00 学芸会とか病気で欠席して、学校も休みがちだったから練習にも参加できないで……、だから、高校では絶対に演劇部に入ろうと思っていたけど、三年間演劇頑張ろうと思っていたけど、でも、結局高校でも、あんまり学校にこれなくて。 その後。演劇部に入りたいという思いがありながら、入れなかった、その機会も無くて、機会があっても勇気がなかった、思いを抱え込んでいたままの自分を、朋也が後押ししてくれた。演劇部が廃部になっていた。その後も。演劇部復活への道も。行き止まり、壁へのぶつかり……ここから先には進めないという涙のあとに、もう一度、一歩を踏み出す勇気。
「頑張れ、古河渚」には、困惑した「はい」。一緒にやるのが好きというのは、何も演劇だけじゃなくて。こんなことでも、そうで。頑張れじゃなくて、頑張ろう、が欲しいんだろうなぁ。
21:48 カレー部いいなぁ。入りたい。
22:20 ラスト。顔へのズーム。表情を見ろという意思表示=演技を見ろ、だから演劇だ……は、勿論言いすぎなんだが。ただ、ベクトル的にそういうのは少しあるかも。