うーーーーーーーーーん。


京アニKanonのときに、ソフトウエア開発のアレに喩えて「この作品は『スパイラルモデル』」とか書いて、まあそれは当りっちゃあ当りというか。現実に対する受容を、外堀から埋めていく感じで、徐々に徐々に受容していき、徐々に徐々に(大きなアレ=過去のあゆの件)を許容していく。螺旋が紡ぎ出す全体像と、その先にあるゴール。そういった形で、ひとつの目指すべき場所へと辿り着いている。
とは言えなくも無いと思うんですが。


じゃあCLANNADはプロトタイプモデルかな、と、結構前になんとなく思って。ただまあ何となくというか。各シナリオ毎でのテーマ的な繋がりが、Kanonに比べると弱いつうか漠然としているので、どうにもこうにも、その「何となく」に答えが出せなかったのですが。
現実に対する受容を、幾度も幾パターンも繰り返して、より大きな困難や問題を受容していく、そんな感じかなーと思った。
同じテーマから外堀を埋めるように、だんだんとだんだんと近づいていくKanonではなくて。
同じ「現実に対する受容」……まあ主に別れなんですが、それを違った形、違った対象で幾度も経験して、その度に、(朋也は)どのように対処し、受け止め、乗り越えるか。風子との別れも、他の誰かとの別れも、いや人だけではなく、バスケとの別れも親子としての親父との別れも、それらのひとつであり、またそれ自体、彼にとっての経験となり力となっていく。

なんか『プロトタイプモデル』からはずれてるけど、スパイラルと対比させたいだけなのでまあいいでしょうw


ここでの風子との別れも、彼にとって別離のプロトタイプ。もちろん、『別れ』それだけじゃなくて、そこに至るまでの風子との日々や触れ合いも、もっとそもそもの、肩の怪我をしたことも親父との仲も、母親がいないってことも、全てがそこに至る道の中にあり、つまり"そこに内包されている"。
あーそうだ、そういった意味でのプロトタイプだ。そこに全てがある。今までの経験や人生の全てがそこにあるから、今、こういう判断を下せる。
今回の風子シナリオでの彼の受容は、彼が公子さんに言った言葉、「あいつの想いの分まで、どうか幸せになって下さい!」が、おそらくそれなのでしょう。
朋也は自身も言っていたように、まだまだ風子と共にいたいが、彼女が消えゆくことはどうやっても止めれないことである。そこでどういう判断を下すか。ただただ悲しみに嘆くか?悲運を呪うか?ふてくされたりいらついたりするか?
そんな中で朋也が下した決断が、その言葉。「公子さんに幸せになってほしい」という風子の一番の願い――それは、今まで共にい続けたからこそ、それが一番の願いだと分かる――と、「あいつの想いの分まで」という、朋也自身の願い――風子が消えるということを許容する為に、せめて、"あいつ"が今までここに居て、"あいつ"が想っていたということだけは残したい――頑張りや強い想いを『なかったこと』にしたくないという願い。


現実の受容。別れの許容。


「でも、何もかも、変わらずにはいられないです」
「楽しいこととか、嬉しいこととか、全部」
「全部、変わらずにはいられないです」


「見つければいいだろ」
「次の楽しいこととか嬉しいことを、見つければいいだけだろ」


その言葉だけで別れを許容出来ないのは、ここでの朋也の言動が証明している。
消え行く風子に「じゃあね、さよなら。俺は次の楽しいこと探すから」と言って終わらせることなんて、出来なかった。風子を忘れた自分自身を許せず、風子が皆に忘れられ「無かった事」になってしまうのも許せずにいる。
別れを認め、現実を受け入れるならば。
その別れに、何の意味があったのか。その別れに、何をしてやれるのか。ここでの彼のように。そんなことを見つけなければ、許容も受容も出来ない。
そういったもののプロトタイプ。別れを認め、受け入れて。それ自体を自分の経験として、また次の別れも認め、受け入れる。あきらめではなく。自分にとって何なのか。相手に何をしてやれるのか。それらを最大限に考慮した上での、別れ。


幾度も繰り返す『別れ』。それはだんだんと許容していく……だんだんと確信に迫っていく「Kanon」と違い、一回一回が他と比べられない大切な別れで、一回一回が朋也の経験として、朋也の中で息づいていく。と思う。や、一本道だということを考えたら、息づいてくんじゃないかなーって(自身ナシ)。



ん。書き出した時は、すっぴー様と被るというかパクリと思われかねないかなっと思ってコッチに書いたけど、これなら大丈夫そうな気がする。……大丈夫、っすよね?


……つーかやっぱ、『プロトタイプ』じゃあ無いよな。まあある意味では、そうではあるんだけど。
あーそうなると、京アニAIRは『ウォーターフォール』っぽいな、ちょっと。