やっと「よつばと」全部読んだ。(超メモ。超はしり書き)

ちょこちょこ読み進めていた「よつばと」を、やっとこさ単行本全巻分読み終えました。
素晴らしくイイです。あー、はやく次の巻出ないかなー、ちくしょー。


で、ちょっと思ったこと。うーん、こりゃ、疑似体験……というか擬似認識マンガか?
『擬似認識』と書くと正直言いすぎなんですが、よい言葉が思い浮かばなかったので。
人類は衰退しました2巻』の、ある文章を思い出します。

人の見ているものでも妖精さんに見えないもの……単に可視光線だけの話にとどまらず、理解や認知の届かないエリアや概念が、あるのではないか。
(P52)
(ここだけでは引用足らない・説明不足です。他にもいくつか情報として持ってきたい文章があったので、その辺あとで纏めて(このエントリまるごと)リライトします。たぶん)
妖精さん」という別種族のお話しですが、これ、「妖精さん――人間さん」じゃなくて、「人間――人間」の間でも通ずることでもあると思うのです。分かりやすいのは子供であるよつばで、「大人――子供」間の話に落とせば、"大人と子供では、単に見えているものの違いに留まらず、理解や認識の届かないエリアや概念が、あるのではないか"、ということ。
その辺の子供の認識を、この作品は擬似的に見せてくれてる、みたいなー。いや、よつばだけじゃなくて、他の人物もそうですね。他の人物が何を見て何を感じて何を考えているのか、以上に、他の人物がどういう理解・どういう認識を、どんなエリア・概念に対してしているのか、みたいなのが、擬似的に見て取れる、みたいなー。
全員バラバラの個性・性格を持ったキャラクターであり、かつ、全員、悩み・問題・苦悩を(一瞬一瞬はともかく)長いスパンでは殆ど抱えていないor一般的なものしか抱えていない(風香の失恋とか足太いとか)。こういった種類の多様性と、その中身の単純さが、擬似的な認識を持たせるのに一役買ってるんじゃないかなーと思う。
あと絵も。下手によつばの視点とかにしないんですよ。例えば牛乳を風香の学校に届ける話がありましたけど、あそこで途中、歩行者陸橋に登って、降りようとしたよつばが「や、やめとこうかな…」とビビッタ描写があったじゃないですか。あそこ、子供から見て「高い」「怖い」を表現するなら、そのまま子供視点で橋の高さと下りの角度とその恐怖感を表現した方がよっぽど楽かもしれないのに、そういう描写をしない(てゆうか、子供の目から見た「でかい」とかを、子供目線で全然描いてない気がする)。
こういうところが、読者の想像力を促して、かつ、描いてしまうことにより生じる可能性がある「俺にはそうは見えない」という乖離を抑える効果があって、より擬似認識的な気がします。
えっと、超メモの超はしり書きなんで、乱文乱筆乱思考は仕様です。