クラナド21話、第二印象

最初見たとき、あの、らきすたの、13話くらいだったかの、本気でムカついた回を思い出した、つまりそのくらい"あさましさ"を感じた――発声練習時の不要な台詞とか、乳のアングルとか――のですが。
同時に、他にも何か違和感を覚えた。細かい点だと、オッサンの顔面に茶を吹く所とか、春原がCDを止める所とか。キャラの顔アップの多用とかカメラアングルの滅茶苦茶な動きっぷりとか。特にズームが酷すぎる。渚に対するズームで、渚が言われたことを「YES」とするだけの部分で使われてたりするのだけど、そんな人物への寄り方酷すぎる(19話なんかとはまるで違う運用)。杏・椋・ことみが演劇部に今も居て今も手伝う動機が不明瞭なところなんかも特にそうですけど、キャラクターの自己意識によって物語を作るのではなく、物語がキャラクターの自己意識を制定しているかのよう……というと言い過ぎなんだけど、「そこに至る筋」の表現が効果的ではないから、視聴者にはそう捉えられるかもつーか僕はそう捉えた的な。
人物の中身もへったくれもない感じ。自我なんて存在しない、空っぽの人形にさせている演技。つまり演劇ということで、お後が良いのではないでしょうか(よくない)。
今回がどうこうだけではなく、今までのツケが回ってきた感じもあるのかも。

「みんなで一つのこと」っつても、温度差があるんですね。渚以外が(渚に比べると)かなり気楽な感じに見えるんですけど、そこは動機が不明瞭だから(つまり失敗リスクに対して、本来ベットされる、動機の挫折というチップがよく見えないから)ってのもあるんですけど、何かわざと、そうしているような気もしなくもないというか。
部外者を除外させている?とか?
「みんなで一つのこと」と言いながらも、実は、あんまりそんな風には見えなくて。意気込みや動機が異なるんだから、やってることは「みんなで一つ」でも、そこは「みんなで一つ」じゃないんですね。
なんかわざとこうしてるような気が。こうすることで、「渚シナリオ」とした場合の収束力がアップするというか、原作にある孤独感を何とかかんとか表現しているような。別にそんなことはないような。