「CLANNADは人生」を読み解く

CLANNADのネタバレを含みます。超ネタバレしてます。
原作知らないけどアニメ楽しみにしてる〜なんて人は絶対見ちゃダメ!



CLANNADは人生」――この言葉が使われるようになり、どれほどの歳月が流れたでしょう。今でこそギャグやネタ、煽りや嘲りや自嘲として使われる言葉でありますが、しかし忘れてはいけないのは、これは、この言葉が最初に登場した時は、そのいずれでもなかったということ。もちろんそこには、他者とのコミュニケーションの中で何らかの強制や制約・修正のバイパスがかかっていたでしょうから、この言葉をそのままで受け取ることには疑念が残ります。それでも、そもそもの「CLANNADは人生」という言葉は、これ以降に多発した「○○は××」(ex:「Fateは文学」など)とは全く異なるコンテクストであったということは明らかです。つまり、後者とは異なり、ネタやギャグとして唾棄するだけでは済まない何かがそこに確固としてあったのです。そうでなくては、この言葉がネットを賑わすさらに一年以上前から「CLANNADは人生って感じだな」と思っていた僕の心が説明つきません。
しかし、今になってみると、僕は思うのです。これはもしや逆ではないかと。その言葉を真面目に思う/作品の感想が「そうであった」人間にとっては、実は逆なのではないか/逆に捉えるべきだったのを勘違いしていたのではないか、と。寺山修司の言葉をモチーフに使えば、『「CLANNADは人生の比喩」ではなく「人生こそがCLANNADの比喩」』なのではないかと。
そう、「ここは逆」――CLANNADを人生と捉えているのではなく、人生をCLANNADと捉えている――それを前提に、ここからの文言は綴られます。そこだけは読み違わないでいただきたい。

ここでは主に「AFTER STORY」に焦点を絞ります。もちろんアフター以前も重大な含意が多々ありますが、そこまで範囲を広げるとあまりにも長くなってしまいますし、重要性もアフター以前と以後では比べ物にならないので、アフター以前は皆様方のご記憶をご自身で参照していただくとして、そこは割愛させていただきます。
CLANNADって「家族すげえよ、生きる意味はそこにあるよ」みたいなことを描き、また時にはそれとほぼ同じことを言葉と音声でもってダイレクトに述べたりしてて、これはCLANNADという作品のイデオロギーのように受け手には感じられる場合もあると思うのですが、実際的なそれ(の実証)の描写は中途半端な地点で終わります。少なくとも一部分、描かれてい「ない」というのが描かれないことにより確固として「ある」ことが分かるようになっている。AFTER STORY。渚と家族を築き、汐という子を得て、だが渚は死に、朋也は汐とは離れて暮らす、しかし、また汐と家族として一緒に暮らすようになり、父親である直幸とも普通の家族の形を取り戻し/得る、のだけれども、汐は死(んでしまったかのように描かれ)、そこで物語は一端終わって――渚出産の場面に移り、今度は渚は死ななくて、そして、そこで物語は真に終わる。
纏めましょう。AFTER STORYは、運命論的な不可避の喪失・失敗を経て、その後”自動的に”やり直すチャンスを得るのだけど、”そこまでしか描かれない”。その後(渚が死ななかったの方)の、実際的な「家族すげえよ、生きる意味はそこにあるよ」が描かれてないわけです。存在は確かにあるのに、描かれてだけはいないのです。ないがあるという「不在」が、そこに在るのです。勿論、それ以前の部分で、「家族〜」は描かれています。しかし、ここで注目なのは、そこで描かれているのは波乱万丈で起伏に富んでいて、例えば秋生・早苗・渚の古河家のような、朋也くんの外側では描かれる一般的で普遍的でありふれている家族の表象ではないのです。例えば私たちが自分の将来とか結婚を想像したときに、まず一般的に第一に想定するような形ではない。勿論「一般的」の家族にも、余人には計り知れないほどの紆余曲折と起伏があるのですが、しかしCLANNAD(の朋也くんの家族)で描かれているのは、紆余曲折と起伏ばかりであり、しかもその逆が、渚が死なない方の物語が、確固として存在しながら、僅かばかりのイメージを見せられるだけで、作中でその中身は「描かれることがない」。この両者は強く対比的に捉えられて、そして後者が一般的――受け手の実感的な想像力と地続きである”のに”、描かれないことにより、そこにある種の移譲や転移、または現実で実行することによりその「不在」を埋める(CLANNADを現実に敷衍することで完結させる)という欲望への原動力に変換されうるのではないかと思うのです。

「描かれない」という最後。受け手をそこ(朋也くんたちの家族)から排除しているのですが、同時に、それが一般的であるがゆえに、そしてまた見せられてきたのが一般的ではない朋也くんの家族だけに、さらにCLANNADが家族に対し発する意味と観念を受け取るからこそ、それら全てが作中の物語描写/朋也くん/CLANNADから受け手に転移するかのように働く――そういう場合もある(受け手に対し移譲的であるからこそ、受け手次第で変わりを見せる)。
つまり、そこで見れなかったものやそこで叶えられなかったもの、そこで達成できなかったこと、そこで立証できなかったことが、CLANNAD内で散々それの価値を高めていた/保証していたからこそ、受け手の方に転移している。
ある種の受け手には、「続きは現実で」、というリードが引かれていたのです。CLANNADの物語構造が隠喩的にこれを相乗します。失敗や喪失を”不可避のもの”とした上で、天からの授かりもののごとく自動的に”やり直すチャンスが与えられる”(正確には、それは失敗したものとは別の(平行世界的な)生であり、やり直すと新しくはじめるの中間くらい)というその作りが、そこを補強していると思うのですね。受け手の実際の人生での、ここまでの失敗や喪失を運命論的に寛容した上で、新しくはじめる/やり直すことを無条件に認証している。
そしてこの新しくはじめる/やり直すが同時に存在している(作中で明確ではない)部分が、朋也ならびにプレイヤーを、プレイヤー自身に認めさせる効果を持っていて、だからこそ、「人生はCLANNADCLANNADは人生」という置換が可能になるのではないでしょうか。条件を同等に、含まれる質も可能性も意味も同等に、現実と虚構が相対化されることにより、その同等が、もはや同一に近く受け止めることが可能になり、その二つは交換可能になったのです(さながら麻枝准が『PC版CLANNAD』に付随してきた小冊子で「もう一つの人生がそこにあった気がしてならない」と述べたように)。
だから、ある種の受け手にとっては――特に、自分の人生観や家族観に強い何かを持っていない者にしてみれば、「人生こそがCLANNADの比喩である」――人生のデザインパターンの最良のひとつとして、機能してしまうのではないでしょうか。謂わば彼の者にとっての大きな物語CLANNADなのです。現実の自分が結婚して子供作っていわゆる幸せな家族を作ることが、地続きに、CLANNADで描かれなかった部分を埋めることに繋がる、そこを見たいという欲望を達成させることになる、つまり、現実の自分の人生にゲームのCLANNADが続いている(あるいは「続けたい」という欲望をそれに置換できる)。「CLANNADは人生=人生はCLANNAD」である、という見方が存在すると思うのです。