実感の共有という、なんとなくな価値観の共有

■最近のオタク
http://anond.hatelabo.jp/20081212004029

とにかく、知識を詰め込み、それを他人にひけらかすことでなにか偉くなった気分になっていた。
ところが、最近のオタクは作品の知識とかどうでもいいらしい。
(中略)
そもそも彼らには”布教活動”という概念すらない。本当に作品を愛しているならば、他人に熱心に勧めたくなるはずだが・・・。
ある意味僕のことですね。たぶん。僕は京アニ厨を自称するくらい厨ですけど、現実で人様に京アニをオススメすることはないし、ネット上でも自分のブログ以外で人様にオススメすることはないです(自分のブログでやってるそれも、自覚としては「オススメ」ではなく感想的な「コンテンツ」という感じですし)。


この場合の勧めるというのは、ただ「面白い」とか「泣ける」とかの一言二言だけではなく、深く語る――作品の魅力を熱く語った上での「勧める」だと思うのですけど(ある意味「勧める」と「薦める」の辞書義の違いですね)、そういうオススメ的行為は、それがコミュニケーションの入り口とか潤滑油として以外では(要するに「聞かれてもいないのに」「会話の流れ・空気読まず」にだと)「自分の価値観を他人に問う/植えつける」動機が少しあるんじゃないかなぁと思ってしまうのです。それを介して/通して、自分を知ってほしいとか、そういう欲求があるんじゃないかなぁとか(そう考えないと僕には理解できないかもしれないので、牽強付会にそう捉えてるだけかもしれませんが/というか、僕がもしお薦めるとしたら、そういう部分が多少なりとも混ざってる)。

人が自分で思う自分の価値観というのはそれは主観的なものであって、それを根拠もなく「これは絶対だ!」と思える人、ないしは自分の中でそう思えるだけの価値があるモノって、そうそうないでしょう。自分の経験に深く纏わる特殊なもの(例えば家族とか)みたいな、一部の特別を抜かすと、大抵のものは結構、周りの価値観に自分の価値観が左右される部分があると思うんですね。例えばブランド品とか、レアな何か、友達が欲しがっていた何か、要するに(特定・不特定関わらず)他人に羨まれるような物事を欲する、つまり羨ましがられたいというのは、それの価値が既に他人によって決定済みで、価値が保証されている(そしてそれを所有する/達成する自分の価値が認められることに繋がる)というのがあるでしょう。
また権威(社会)が価値観を作り上げる、それを共有する、それにより、それを達成することで自分の価値が認められるなんてこともかつてはあった。


でも今における共同幻想的な価値観は、あるいはその「厨」的な人々の共同幻想的価値観は、共有する価値観を元にして本当に共有するのではなく、実感を共有する(表面上共有する)ことに置き換わってきているのではないかとか思うのです。仮説的ですが。


今は「実感」の方が求められてるんじゃないか、みたいに思うのです。
「面白い」「つまらない」「泣けた」「萌えた」「笑える」とか、そういう感情としての実感が、消費者を惹きつける強い記号となっている。例えばゲームのユーザー投稿型レビューサイト、あれは基本的にどこのサイトでも一つ一つのゲームにユーザーが点数を付けていくという形なのですが、その点数が依拠しているものはユーザーの実感――特に感情的な実感なんですね。内容はつまらないけど批評的に面白いから90点とか、つまらないけど歴史的意義から80点とか、滅多にない。そして実感も、細かく記す方もいらっしゃいますが、基本はかなり大雑把(「グラフィックが綺麗」とか「ストーリーが泣けた」だけとか)。そもそもネタバレをあまりしないようにというのが前提なのでそうなるのは当然の部分もあるのですが、結果として、このぼかしが共感のシステムを生んでいるのではないかと思うのです。
もっと典型的なのが映画のCMで、最近のは何処の誰とも分からない観客が「面白かった」「泣けた」「カッコイイ」「最高!」とただ言いまくる、一般的であり匿名的な観客が感情的な実感を述べるのが定型(流行)になっています。映画本編の映像をCM内から削ってでも、観客の感想を入れているのです。ちょっと前だとおすぎが「凄い凄い」言うのが定型(流行)で、さらに前だと全米が感動するのが定型(流行)。
ここで注目すべきは、その中身が語られていないという点です。「面白い」とか言われても、「泣けた」とか言われても、「カッコイイ」と言われても、「最高!」と言われても、何が・何処が・どうしてそうなのかが、まるで語られていない。そのCMを見て視聴者が彼らの感想を鵜呑みにするかと言えばそんな単純なことはもちろん無いけれど、しかし「感情の実感」だけを剥き出しに表出されれば、「えーマジかよー」くらいの興味は惹けると思うのです。映画を娯楽として受容する人が殆どな以上、「面白いかどうか」とか「泣けるかどうか」とかは重大な点で、それがこのように何が・何処が・どうしてを語らずに述べれば、この映画がその感情を導き出すものを表意しているのではないかみたいな誘導が少し生まれる。
全米→おすぎ→一般人を数人と、非権威的で匿名的になっていくことも注目です(この場合の全米は、匿名の米国人達の感想の総体というより、米国というイメージに近いでしょう)。「泣ける」「凄い」「面白い」から、権威をとっぱらったのですね。価値というものが個々人に依拠するようになってきている以上、権威が価値を認めるよりも、匿名の一般人が価値を認めて、そこへの「共感」を欲望させた方が有効的でしょう。これは実感の中身が語られていないからこそでもあって、例えば僕らがそういったCMをきっかけに映画を見に行って「面白い」「泣いた」「カッコイイ」「最高!」と思えば/感じれば、何となくCMの彼らと「共感」できた気になってしまう。本当はCMでそれを語っていた彼らとは違うポイントで僕らは「面白い」とか言ってるのかもしれないのですが、その中身を語らせないことにより、それを隠蔽しちゃって、「実感」だけを取り上げて、そこだけで「共感」のシステムを作り上げちゃっているのです。
同じものを見ていなくても同じものを見ているかのような、同じ意味で面白がってなくても同じ意味で面白がっているような錯覚。
それは、本当は違うかもしれないけど、表面的なものなんだけど、そうには見えない(気付けない)、なんとなくな「価値観の共有」にもなっていると思うのです。


深く語るよりも、とりあえず「面白い」「泣けた」で、何処がどう面白くて泣けるかは二の次、実感的な共感がそのまま価値観の共有に繋がる。
そしてこの実感だけを共有しているかのように思える現象は、増田さんが「ニコ厨」とお書きになられたように、そのまんまニコニコ動画のコメントにも当て嵌まります。ニコ動には「笑えるw」「泣いた」みたいなコメントはよく書いてあって、それを見て笑ったり泣いたりすると(動画のそのコメントが書かれた部分あたりでそういう感情を抱くと)、まるでそのコメントを書いた彼らと同じ気持ちを抱いているような気になってしまいますが、実際はそうかどうか分からないんですよね。もしかしたら自分とは全然関係ない部分で泣いたり笑ってるのかもしれないし、違う意味なのかもしれない。でもシステム上、その辺は自然にぼやかされてるわけですから、その言葉だけで共感が錯覚的に生まれる。歴史も起源も元ネタも知らなくても(てゆうか最低限のそれくらいは(正しいかどうかはともかく)結構コメントされますが)、それを知ってる人とそれなりには共感している気分になれるのです。例えばアイマスニコマスも何一つ知らなくても、http://www.nicovideo.jp/watch/sm3056588 この動画のサビの部分で「\まこまこりーん♪/」と書き込めば、それだけで、他のその言葉を書き込んだ彼らと、なんとなく気持ちを共有している気分になれてしまうでのではないでしょうか。彼らがどんな理由で意味で意図でそれを書き込んでいるかに関わらず。実感がまるで共有できているかのように感じられ、それは錯覚的に(かつ刹那的だけど)価値観も共有しているかのように感じられるのではないでしょうか。