初音ミクのEcriture/Lecture

ユリイカ初音ミク特集号を読みました。
これは恐ろしく想像以上に内容が濃かったです。本書の内容は、僕が読んだ限りだと、受け手がいかに受容しているかみたいなのがメイン(つまりミクの使い方とか楽曲紹介などは殆どない)でして、「声」、「キャラクター」、そして同人音楽の歴史やニコニコ動画など大きな意味での「インフラ/場」、あくまでも大雑把ですが、大別すると、その三つの観点・切り口から分析・考察されています。にも関わらず、全員別の観点・切り口からにも関わらず、殆ど皆が同じことを語ってる・同じ方向に向いている、そんな感じがどことなくしてきます。逆に言うと、現在の――現状の「初音ミクの受容」を語るには、その三つは不可分なのだろうという感じもします。


僕自身は初音ミクを最初から追っていたわけではなくて(という点からも、この記事は初期から追ってる人と非常に齟齬が多いものになっているかもしれません)、むしろ初めて聞いたときは、ある種の<得体の知れなさ><怖さ>を感じてまるでダメだった。その僕の感じた<得体の知れなさ><怖さ>が何だったのかは、上述ユリイカにて中田健太郎さんが半分以上言い当てていて、つまり「何からの」「どこからの」「誰からの」声なのかがまるで分からなかったからこそ、僕はそういう風に感じたのでしょう。

機械的・非人間的な声に、視覚的な像を与えることで、われわれはある種の安心を得ているようなのだ。(中田健太郎「主体の喪失と再生」P196)

最初に聞いたとき、僕はそれを<人間の声ではなく初音ミクの声だ>という認識の上で聞いているから、それは誰かの声でも機械の声でもなく「初音ミクの声だ」と知りつつも、<初音ミクが何か>ということをまるで知らないから、そのような得体の知れなさや怖さを感じてしまった。機械でも人間でもなく、じゃあそれは一体何なのか?――今から考えれば馬鹿らしい話ですけど、何故か得体の知れないものに感じてしまったのです。けれど時間が経つうちに、初音ミクというキャラクターが、直截にはそれを追っていない僕の中でも出来上がり(例えばWEB上で見れる絵やマンガから、どこかの誰かの言及から、あるいはらき☆すたにてアニメキャラが初音ミクのコスプレしたことから)――つまり記号としてのキャラが内実を伴うキャラクターとして捉えられるようになり(勿論僕のそれは他者のそれとは違うでしょう)、そして幾つかの楽曲を聞いていく内に、その声にも、機械的・非人間的な声というだけの印象ではなく、それが初音ミクの声だという認識が僕の中で出来上がった――つまり記号としての声に、内実が伴ったと実感したのです。
声の発音者としての指標を図像だけでも与えられますが、それだけでは僕には足りなかった。というか「結び付き」を必要としてしまった。この図像の中身は何か、この声の中身は何か、それを知った上で、では何故(どのように――どのような必然の元に)「その二つは結び付くのか」。僕は「ゆっくり」とかにも近いことを最初感じていて、あれも色んな動画を見て、ゆっくりの図像レベルのキャラクターと声レベルのキャラクターが、なにかしら自分の中で出来上がって、その二つが結び付いていることが自然と感じられるまで、少し<得体の知れなさ><怖さ>があった。


逆に言うと、そここそが僕にとって「初音ミク」の魅力でもあるんじゃないかと思う。
初音ミクは、人間的な声であり、人間的な絵であるんだけど、そこから「的」はどうしても消え去らない。声には人間的でない特徴があり(ユリイカで言及されていたことですが、ミクの声には子音から母音への変化の欠落とか、どこかに残ってしまうひらがならしさとか)、絵もまたアニメ的な(例えばリアルなタッチで絵を描いても、個々のパーツがアニメ的であったり)特徴がある。つまり初音ミクという虚構は、人間を目指す・描写するという虚構ではなく、”虚構を目指す・描写するという「虚構である」”と思うのです。そしてそれは、表面上の絵、声、またその中身、仮想的に見える人格、物語、その全てに、もし現実を目指していたら達せないであろう柔軟性をもたらしている。受け手ひとりひとりに、作り手ひとりひとりに、別々の初音ミクが偏在できるようになっている。

実際、ボーカロイド作品を聴いているとき、それを操作する人間、つまり「中の人」を感じることがある。(中略)つまり「中の人」の数だけの初音ミクが存在しているといってもよい。(石田美紀「中の人になる」P93)

同時に、「受け手にとってそれぞれの」初音ミクになっているとも思うのです。例えば最初期から熱心に追っていた人と、僕のような人とでは、それぞれ別々の初音ミク像になっていることでしょう。しかし、設定も歴史も「公式としては」殆ど無かったという初音ミクの生い立ちが、吸収してくれる。自分にとってと他者にとってが、本質的には等価にならざるを得ないでしょう(愛情とか知識など何らかの価値観で優劣づけれますが、そこの恣意性は否定できなくなる)。


僕が何かものを書く際には、どうしてもそこで齟齬が生じてしまいます。伝えたい何かがあるとして、それを文章に載せる際、どうしてもその「伝えたい何か」が、どこかの点で、なにかしらの量で、逸脱してしまう。自分の考えや気持ちを十全に文章に込める、そして過不足なくそうする、なんてとても難しくて、言い換えるなら、まるで紙とペンから(今でしたらキーボードと画面から)何かの抵抗を受けているかのような感じでもあります。それは読む際にもそうで、あらかたの意図と意味を誤読してしまうこともある。テキストに、書き手が思ってもいないような意味が生じることもあるし、また読み手が、テキストから勝手に意味を読み解くこともある。また僕らは、その文章だけしか知らないってわけでもありませんから、その文章の読解に、また意味の解釈に、その文章以外の何かを自然に――あるいは自発的に用いてしまう。例えば他の文章だったり、作品だったり、何かしらの発言だったり。
そういうのを、初音ミクはある意味・ある程度吸収してしまっているように思えるのです。
例えば僕が文章を書いて、そこから何かの意図を感じたとすると、それは僕に帰ってくるでしょう。書き手はこういうことを考えてるのか、みたいな。しかしもし、このブログの文章に僕とは全く関係ない身体的なるものを与えられたキャラクターが媒介者として存在して、キャラクターとして立っていたら、それは「そいつのモノ(意思)」のように感じられるのではないか……?
わけわかんない感じですのでw、もうちょっとまともな喩えを。あるバンドのある曲を聴いていて、ギターの音が凄かったりする・あるいは変だったとする。そうすると僕らは普通、「ギターの人上手いなぁ」とか「ギターの人下手だなぁ」とか思ってしまうでしょう。曲やギターに特別な投錨がなければ、ギターという楽器ではなく、ギターの使い手という演奏者(ならび彼のテクニック)に感情は回収されるでしょう。しかしもし、例えばマンガにでも出てきそうな、「意思を持って喋るギター」みたいなのがいたら、その感情はギターという楽器にある程度以上回収されるのではないかと思うのです。そのギターが自発的に演奏することもなく、またその感情が奏でる音に何の効果も与えないとしても、その音色が泣かせる音色だったら、心躍らせるような音色だったら、あるいは周りと合ってないヘンテコな音色だったら、それを聞いた感情が「演奏者のテクニック」ではなく、演奏されている「楽器そのもの」に幾分か回収されるのではないかと。
それと同じ様なことが、キャラクターとして立った『初音ミク(声・図像含め)』、それを受容する僕自身にも多少以上に起きているように感じられるのです。何かを表現する際に必ず生まれる「媒体からの抵抗」が、初音ミクというキャラクターに回収されている。他の媒体と違って、媒体自体がキャラクターとなってしまったから、ある程度の「作者の意図」すらそこに吸収される。もちろん、あまりに逸脱したもの・これまでと背反しているものは受け入れにくいですし、感情も初音ミクに回収されるよりも作者に強く回収されるでしょう(作者の意図を感じてしまう)。しかし例えば、『ワールドイズマイン』を聴けばわがままな女の子が浮かんでくるけれど、『サイハテ』を聴けば別れに対する清清しい諦観が浮かんでくるけれど(これらは僕の感想w)、それが全て作者の意図に回収されるのではなく、ある程度以上が、『初音ミク』に回収される、そのように僕としては感じられるのです。これがもし、元々実在する歌手の歌曲だったら、多分もっとその裏(作者の意図)に回収されてたのではないかと思うのです。
初音ミクが(殆ど)何者でもないからということで生じた柔軟性、また正統なきゆえに個々人のそれに生じる等価性、そして人の模倣ではなく虚構の創造と成長であるということ、そしてキャラクターが立ったのはあくまでも個々の楽曲や個々の絵や何処かの言及からによる半自動的な構築であるということ*1。きっとそれらの要素から、たぶん僕はこのように感じられるのかと思い、そして、他にはまずないこのような部分が、楽曲や映像を通り越してのまずもって、前提部分での、僕にとっての初音ミクの魅力――そして当初受け入れられなかった部分――ではないかとも思うのです。

*1:「場」が抜け落ちていますが、僕が聴くのはニコニコ動画よりもMP3やyoutubeの方が多いので。そういう意味ではより、皆様の実感と離れてしまうかもしれません