「○○は俺の嫁」と「俺だー!結婚してくれー!」を考える


とくに何か纏まってるわけでもないけど何となくメモのように書く。


「俺だー!結婚してくれー!」というのは、ニコニコ動画アイマスMADが発端で……いやまあ使う側・読む側の文脈にそれが載せられているかを考えると、これについてはあまり起源は関係ない(書いてる側も読んでる側も「知らない」場合が多いだろう)と思うんだけど、それはともかくとして、最近「俺だー!結婚してくれー!」を(勿論ニコマス以外の場所で)それなりに見かけるようになってきました。
「○○は俺の嫁」の流れといえば流れだけど、むしろこれは逆流でもあると思うのです。「○○は俺の嫁」って、別に戸籍の上で嫁なわけでもなきゃ相手に嫁だということを承認してもらってるわけでもないし、そもそもとして相手にプロポーズすらしていない。対し「結婚してくれー!」というプロポーズの言葉が、結果的にはそれを埋め合わせるかのようになっています。
「俺だー!結婚してくれー!」の『俺だー!』って部分は、「○○は俺の嫁」を前提にしている――あるいは同時的である――かのようにも捉えられます。というのも、いきなり『俺だ』じゃ意味が分かんないんですよね。初対面の人に「俺だー!結婚してくれー!」と言われてもわけが分からない。いや、職場の同僚や学校の同級生、それなりに親しい友人に言われてもわけが分からないでしょう。例えば、特に恋愛関係も恋愛感情もない友達に「俺だー!結婚してくれー!」と言われて結婚する人は普通いないでしょう。
しかしこれが、もう結婚秒読みみたいな恋人同士だったらどうでしょう。「俺だー!結婚してくれー!」が成立するのではないでしょうか。つまり『俺だ』――『その人である』ということが、結婚に直結している


そういう点から、「俺だー!結婚してくれー!」は、「○○は俺の嫁」を前提としている/あるいは同時的である、と思うのです。「俺の嫁」である/になることが確定的に明らかな対象なのだから、『俺だー』の一言でプロポーズが完了する。『俺だ』が遡行的であるないし同時的であることを暗示している、あるいはその逆、遡行的であるないし同時的であるから『俺だ』の一言で形式が成立する。


しかし同時に、そうでは無い部分もある。
アニメやマンガやゲームなどの二次元のキャラクターに、こちらがどういう思いを持とうがそれをぶつけようが、それを確かめようが無いという断絶が前提としてあります。上のように「結婚してくれ」「俺の嫁」と言ったところで、相手がそれをどう思ってるかなんて確かめようがありません。また万が一確かめられても、例えば「結婚してくれ」などの要求は、どう足掻いても叶えようがないという断絶もあります。
「俺だー!結婚してくれー!」も「○○は俺の嫁」も、そういう点が前提とされています。
もちろん中にはマジで嫁と信じて疑わない方もいらっしゃるでしょうが、基本的にはその断絶に自覚的でそういうことを大体の方は仰ってると思うのですが……いや、うん、全員には当て嵌まらないかもしれませんが、とりあえず僕が言う場合はそうです。
そここそが肝だと思うのです。
ここでは要求自体がネタ化されている――換言すると、”叶わない要求だと自覚している”。叶わないと自覚しつつそういうことを言っている。いやそれだけに限らず、むしろ、叶わないと自覚しているからこそ、そこまでのことが言える。
求めているものが手に入らない場合の痛みがそこでは薄いのです。だって元々「手に入らない」って自覚しているのだから。求めた時点で不可能性に行き当たると分かりきっている。だから、求めたものが手に入らないという痛みの大部分は、そもそも”それを求めるということが間違っている”という前提によって薄められる・あるいは覆い隠される。俺こんなこと要求してるけど叶うわけないよなーという自覚を持った時点で、自分の中である程度以上「ネタ」としてそれを咀嚼できる道筋が構築されると思うのです。
だから要求は「嫁」だろうが「結婚」だろうがどこまででも広げられる(あるいはネタなのだから)。希求ごっこでもあると思うんです。叶わないと分かりきっているのだから、それが叶わないで生じる痛みは、もちろん無くは無いけれど、”叶うかもしれない”要求が叶わなかった場合に比べれば非常に薄らいでいます。
そして叶わないことに自覚している以上、その痛みの攻撃対象は要求を叶えられない相手よりも、求めてしまった自分へと向かいやすい。「なんでお前はモニターから出てこないんだ!」と相手にぶつけるより、「どうやったら俺はモニターの中に入れるんだ!」と自分にぶつける発言の方を多く目にするのが何よりでしょう(……と思ったけどこれは喩えとして違うか。まあとりあえず置いておきます)。


さらに纏まってなくさらにメモな領域に。


さて、とはいえ、上記のは一方向からしか語っていません。「キャラクターが認めてくれない」ということ。キャラクターが認めてくれない(断絶)から叶わない、ということを前提にしている。
それを仮想的に埋めるのが、ちょっと前に話題になった「現実で二次元キャラと結婚うんぬん」のあれで、発案者さんがどうお考えかはともかく、結果的には、あれが叶えば、”キャラクターから得られない承認を社会から得ている”ということになります。叶わないという前提を別方向から越えているわけです。
キャラクターから得られない承認を他から得る、というのは、他の場合にも言えることであって、例えばあるコミュニティ・または自分の観測範囲内で、それを認めてもらうとかそれを自負するとか――要するに「俺が一番○○のこと好きで理解しているから俺が○○の嫁にふさわしい」みたいな承認ですね。この場合は承認というより、主張の正当性の担保と置き換えた方がよいかもしれません。「どのくらい好きか」――つまり「感情のサイズ」も、自分の過去経験あるいは他人と比べてはじめて分かる、関係性の中でしか量れないもので、そういう点では何処か(何か)にコミットしてはじめて”主張としての”正当性が保証される/あるいはされないものであり、つまりそれは、キャラクターから得られない承認を何かに代理してもらって得ている(かのように錯覚する)という、断絶越えでもあるでしょう。
例えば僕は『らき☆すた』アニメ放映していた頃は「かがみは俺の嫁」と思っておりw、ネット上の色んなところ見て「あーやっぱ俺が一番かがみんを理解してるし一番好きだな」と一人悦に入ってまるで「俺の嫁」という主張が”承認されたかのような”気になっていたのですが(すみません今は全く勝負になりませんし当時ですらネットの濃いかがみん好きが集る所を見ていなかったので超井の中の蛙ですそもそも「俺の方が」からしてめっちゃ主観ですもしかすると「そう見たい」という願望フィルターかかっていたのかもしれません、すみません)、そんな感じで、自己満足と変わりないであろう仮想的な承認――主張の正当性の担保をそこに見い出し、断絶をその正当性を元に瞬間的に越えたような気にはなれるのです。


と、全然纏まってないのですがメモなので終わりです。