CLANNAD AFTER STORY 第12話 だいいちポエム


――生きてる俺、いますか?


京アニとKeyは『CLANNAD AFTER STORY』というアニメを用いて俺を殺そうとしているのだ。というぐらい、耐え難い精神的責め具となって京都アニメーションクラナドアフターは私を襲ってくるのです。
質が高すぎて。
質が高すぎて、死ぬ。
そもわたしは原作ゲーム版からして質が高すぎて殺されそうになったのですが、映像装置を用いるこのアニメーションは同じ様に高度な質を保ちながらゲームとはまた違った表現と意味とをわたしに与えてきて、何よりわたしという視点が立つ位置がゲームと大幅に異なっており、つまり死ぬのです。

CLANNADという存在の耐えられない重さに本当に押しつぶされてしまいそうで、それは逆から言えば、この京アニCLANNADがそれだけの重さを持てているということでもありましょう。わたしにとってCLANNADは人生で人生はCLANNADだということは幾度も記して参りましたが、そうである故に、人生と等価で同レイヤーに立つこれの重みは――そしてアニメーションにより「見ること」となり、さらに対称性を、非同一性を増したこれの重みは――重々にわたしに圧し掛かるのです。
何言ってるか分かんないかもしれませんが、分からないように書いています。確固とした価値規範なき以上それとこれも等価であり、いわばわたしの人生そのものが価値規範という目指すべきオリジナルなき模倣である以上彼の対象とも等しき領界と等しき重みを与えられ、ゆえに純に中身によってを遊離的な主体でそれの価値を見定めようとしたその軋轢と不可能性の最中に、理想でもありながら絶対として届かないソレが表出し、しかし届かないからこそ、大きくこの胸を穿ち空洞を作り上げるのです。以上ポエムです。以下もポエムですが。
まあそのくらい、わたしの心は傷ついてしまったわけです、このクラナドさんによって。

果たして最終回までわたしは持つのでしょうか。チキンレースの模様を成してきました。最終回後に生きてる俺はいるのでしょうか。どうかわたしとクラナドにとってのわたしにわたしが少しでも近づけますように――。



というか回を追うごとにわたしのCLAアフ感想が病理的な色合いを見せてるような気がするので、本当ラストの方とか、この感想もまたどうなってしまうのだろうw
今回は開始30秒も経たない内に涙ぐんでそれがずっと持続してしまいました。車のフロントガラスに映る入道雲にすら涙腺を引きずられてしまいました。わたしにとってクラナドは、聴衆にとっての芳野さんの唄でありながら彼自身にとっての芳野さんの唄でもあるかのよう。鼻の奥がツンとしぱなっしでした。
一度見ただけなので深くは申せませんが、いや前回も前々回も前々々回もそうなのですが、第9話以降、お話も映像も狂ったように高いレベルを申し合わせるかのように示しておられます。マジレベル高すぎだよ、適当に作ってくれよ、じゃないと死ぬって。
芳野さんのお話をここで入れた意味も十全に伝わってきており、例えばそれは「逮捕」とか「前を向いて出て行かないとここが帰る場所でなくなってしまう」とか、「大切な人を……」という芳野さんのセリフから、あるいは彼の唄う意味や唄えなかった意味などからも――現今の朋也くんに、繋がるような、暗喩のような、微妙な距離感を保ちながら、つまり過去の別の場所の全く関係ない芳野さんのお話が”無関係ではないもの”として、そこに表れています。そして”関係ないものが関係するかのよう”というその構図もまた、このお話の何かに関係するかのよう。
あと所謂モンタージュとかホント殺人的。特に親父と面会した後の場面。挿入される枯れ果てた・死に堕ちたモノが暗喩的に作用していて、また(渚が朋也を抑えた後の)ただ前を横切るカップルなんかですら、暗喩的に作用する。ああ、そしてこれこそが映像の恐ろしさ。挿入されるセミの死骸ですら、あんなものですら、物語世界の一部として意味作用の一部として働いているのに、視聴者はそこに対してあまりにも遠く離れている――セミの死骸に圧倒的にボロ負けするくらい遠く離れている。個別ではなんら意味の持たない塵芥に意味を(瞬間的とはいえ)持たせるがゆえに、そこにも遠く及ばない断絶に悲愴と、そして歓喜の声を上げるのです。最初から届かないと明白ならば、何を望んでも傷つかない!


なんつうかもうこれ、感想じゃないよなぁ。うーん、もうポエムポエム!
ちなみに次回はアレですよ、原作ゲームでわたしが一番か二番目に好きなアレがありますですよ。麻枝さんは一番好きだと仰っていたアレですよ(ソースは光坂)。ああ、もう、来週は、もっと濃厚すぎるポエムをお送りすることになるかもしれません。