可能世界を生きる少女たちは、正史たる物語には存在しなくても作品の中には存在する


グランドエンディングみたいなものがあるギャルゲーは、そのグランドエンディングに結びつくメインヒロインのルートだけが本当で正史で、他のキャラクターのルートは「if」とか「もしも」みたいな感じに捉えられるでしょう。
例えば『AIR』の観鈴ルート(メイン)と、佳乃ルート・美凪ルート(if/もしも)の関係とか。このくらい大きく本流と傍流を分けていると、そのように感じられる(この辺の明確性はゲームによりけりですが)。


ここにおいて、その「if/もしも」はどういう意味を持つのかというと。
それはあくまで可能世界であり、もしあの時こうしていればこうなったかも/こういう人生もありえたかもという、言葉通り「if/もしも」の意味を持ちますが、決してそれだけではなく。
作品全体を通して、その「if/もしも」が、「if/もしも」だとしても存在しているという意味も持ち得る。ちょっと趣旨違いますが、例えばデッドエンドなんてまさにそうですね。士郎くんが死にまくる『Fate』の描かれた可能世界は、その死を作品全体に「if/もしも」として存在していることを意味付けている。「もしかしたら死んでいたかも」ではなく、「もしかしたら死んでいた」が作品内で描写されていることが重要なんです。それは読み手が勝手に妄想・空想したことでも何でもなく、確かにテキストに刻まれている、「(「if/もしも」だから)それは物語には無くても、作品には在る」ものになる(『AIR』におけるキャラクターのルートで言えば、佳乃の「if/もしも」の物語は、AIRの正史の物語には存在しないが、『AIR』という作品には存在している)。
で、もう一つ*1意味があって、それは、なぜそれが「if/もしも」なのかということ。なぜそれが、描かれることにより作品に在る存在となりながらも物語に無い存在となってしまったのか――つまり、ここではメインの話を正史と置き換えれば、なぜそれ(サブの話)が正史ではなく可能性(「if/もしも」)になってしまったのかということ。
むしろ逆から考えた方が良いかもしれません。この、可能世界と正史との関係――対比・対立は、「if/もしも」という可能世界を進まないという”必然”が、正史の物語やテーマを……あるいは作品全体のそれを、逆説的に浮き出す機能も果たすでしょう。可能世界を生きる少女たちは、正史たる物語には存在しないけれども作品の中には存在する以上、その関係性が、全体や個々に対し作用する――存在を誇示してしまうのです。

*1:もう一つ以上あるだろうけど、とりあえず。