ゼロ年代の受け手

ゼロ年代の想像力』を遅ればせながら読みました。
感想とかはそのうち記すかもとして、「安全に痛い」について。


「安全に痛い」には違和感を覚えました。「レイプファンタジー」もそう。それは90年代的受け手の想像力で、ゼロ年代的受け手の想像力とはまるで別物ではないでしょうか。まあ年代の部分は適当に書いてるのですが、現代の受け手はもっと屈託がない。というのも、本書でも何度も書かれているように、絶対的な価値規範がないからですね。誰かと共通できそうな大文字の他者など居ない。罪悪感は規範からでなく、貨幣的・時間的な損失か、ある種の性癖や個別体験によってたまたま現出するかどうかくらい。
AIR』程度のものならば、迂遠な正当化ルートを構築していなくても、虚構に接する主体は既に「虚構に接する自分に対して」正当性を求める必要はなくなっているのです。そもそも、かなり「割り切っている」。例えば、ギャルゲーでプレイヤーが主人公に同一化というけれど、それは”楽しむため”という割り切りであって、同一化したらより萌える、同一化したらより泣けるからこその、ある種の契約だと思うのですね。なにせゲームプレイ最大の目的は「萌え」とか「泣き」、大きく言えば「楽しみ」であって、それを最大限に享受するためには主人公に同一化するのが一番手っ取り早いというのはみんな分かっている。それは主人公こそが物語世界で「体験」しているから。だから時には、同一化対象は主人公以外のキャラクターにもなります。そんな簡単に同一化できるのかというと、それは「契約」だからとっても簡単。本当のその相手に”なる”のではなく、データベースからそれっぽいの持ってきて参照にして擬似的に同一化するのです。もちろん、それでは取りこぼす部分が大量に出てくるでしょうが、目的はあくまで、プレイヤーが萌えたり泣いたりすることで、作中人物と同じ事柄を同じ様に萌えたり泣いたりすることは求めていないので、取りこぼしも全然問題ない。感情の表層部をかっさらいたいわけです。

ここにおいては、「安全に痛い」というよりは、敢えて言うのならば、「安全な痛みがない安全な痛み」とするべきでしょう。
「痛みのない痛み」。恋愛ゲームは「恋愛のない恋愛」だし、物語は「物語のない物語」だし、虚構は「現実のない現実」。
既にそういう「実質」は、現実のぼくらからして死んでいるようなものなので、わざわざ『現実』を持ち出さなくてもまるで問題はない。むしろ『実感』のためには邪魔になるかもしれないくらい。価値規範なければ大文字も小文字も等価になるわけで、そうすれば現前する実感の方が、触れられる分だけ、重い。「ゲームプレイ最大の目的は「萌え」とか「泣き」、大きく言えば「楽しみ」」と書きましたが、何故それが最大の目的になるかというと、そこ。規範無き故実感こそが重くなる。だから、レビューサイトでは萌えたとか泣けたとかが重要視されるし、例えば映画のCMでは観客が「泣いた」とか「カッコイイ」とか「最高」とか、あるいはおすぎが「凄い凄い」と連呼しまくるのです。価値はなくとも、どうしても『実感』というものが付き纏ってしまう以上、重要性(問題性)として半自動的に俎上に上がってくるのではないかと考えられるのです。


……ぬぬ。自分の実感としてはおおよそこんな感じだけど、いささか極論すぎる気がする……。