なぜ浅田真央はインタビューで「そうですね」と言うのか

今日はテレビでフィギュアスケートやってました。今までは仕事とかで殆ど見る機会なかったのですが、いやー、凄い面白かった!
で、インタビュー。演技後、彼女たちのインタビューが行なわれてまして、気付いておられる方も多いかもしれませんが、彼女たちは何か聞かれた後「そうですね」と前置きしてから答えを口にすることが”非常に”多かったです。質問に対する答えの8割以上の場合において、「そうですね」を頭に置く。

インタビュアー「○○はどうだったでしょうか?」
浅田真央「そうですね……○○はどうこうで〜」

こんな感じで。他に村主さん・安藤さん・中野さんのインタビューを、そこのところを注意しながら見ていたのですが、安藤さん以外の二人は殆どの場合で頭に「そうですね」を置いていました。
実はこれ、他のスポーツでもよく見られます。わたしがあまりスポーツを見るほうではないのであんまり例を挙げられませんが、サッカーとか、競馬とかでも、インタビューの時に「そうですね」と言うのをよく目にします。野球でも言うみたいです(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1112897841)。


なぜ「そうですね」と言うのか。ちょっと考えてみます。

  • 「私」と「公」の変換
    • 「もし自分が」で考えてみると想像つきやすいのかもしれません。もし自分が競技者で、集中して競技を終えた後、高揚した精神と火照る体の状態の最中、公に放送されるインタビューを受けるとしたらどうだろうか。下手なことを言ってはいけません。なにせ「公」的な場面――聞いてるものは「公」として受け取る場面ですから、やってられないと思っても「やってらんねえ」とは言えませんし、対戦相手がムカつく奴でも「あいつムカつく」とか言えないでしょう。言っちゃったら考えるまでもなく大問題に発展します。これはスポーツの視聴者がそこに抱いている『幻想』を壊すという意味でもそうでしょう。正々堂々とか、頑張りとか、真剣さとか、そういった幻想を、少なくとも『外面だけでも』そういったものを欲望している。またこういったインタビューは、大抵録画・編集作業なく、ほぼ生で中継――少なくとも会場には流れたりしますから、その分より慎重な発言が求められる/失言できなくなるでしょう。そういう点で、「そうですね」というクッションは機能しうるのではないかと思います。「そうですね」と言う間に何を喋るか考える/整理するのですが、それと同時に――というか、それは同時に、「公」というペルソナを自分に被せる作業でもあるでしょう。たとえばみなさんは、就職の面接――あるいはバイトの面接で、面接官に質問を振られた時、特に、それが自分の中で想定していなかった質問であったとき、「そうですね……」と”無意識に”口にしてしまったことはないでしょうか。この「そうですね……」の間に、自分が用意していなかった回答を用意するのですが、当然ながら僅か5文字の間に、数十〜数百文字分の回答を理路整然と考え付く脳みそを持っていません。その程度の時間では、「あのネタにするか」の導線くらいしか引けないでしょう。しかし自分の中に在る「公」用に変換していないネタはあくまでも「私」であって、そのまま喋るわけにはいきません。「学生時代の部活動でこんなことをやって〜」というのを、そのままで喋ったら失敗しますよね。まず記憶に在る言葉使いを「公」のものに変換して、エピソードの細部(あるいは大部)を「公」で通用するものに変換して、そして質問から相手が求めていることを類推し語りのベクトルをそこに変換しなくてはなりません。これはわたしの中に在る「私」を、「公」に通用するように変換するということで、実質仮面を付ける――わたしの中の「私」に「公」の仮面を付けることとまるで同じです。つまりは「私」と「公」の作業に、「そうですね…」という保留と反応が契機となっているような感じ……ではないかなぁとか思われます。
  • 無言ではいけない理由
    • それだったら無言でもいいじゃん、5秒くらい黙ってその間に考えて変換すればいいじゃん、と思われるかもしれませんが、それだけは否だと断言できます。何も言わなかったら、無言になってしまうからです。つまり、「「反応がない」という反応」が生じてしまう。わたしたちの身近なところを例にすると、たとえば、誰かに「○○だよね?」と訊いて、5秒くらい無反応のあとに「そうかもね」と言われるのと、「うーん」「えーと」で5秒くらい繋いだあとに「そうかもね」と言われる、その二つを比べてみれば瞭然でしょう。前者の方(5秒くらい反応が無い方)は、”なにか含みでもあるかのように”感じられないでしょうか。この人は「そうかもね」と口にしてるけど、実は全然そんなことは思ってないんじゃないだろうか、内心ではバカにしてるんじゃないだろうか、とか、そういう疑念を生じさせるには十分、含みのある「反応がないという反応」ではないでしょうか。忘れてしまいがちですが、コミュニケーションの内容というのは、明示化された部分だけではなく、明示化されていない部分も含んで理解されます/しています(そしてまた、コミュニケーション行為”そのもの”も含まれます)。むしろ言語化されてない分だけ、如何様にも解釈できる分だけ、そちらの方が危うい意味を生じさせやすいでしょう。そしてこの例のような、目立つ「反応がないという反応」は、そうだからこそ逆に、この無言の部分で”本心を覆ってるのではないか”という疑念が生じてしまいやすいのです。また反応がないという反応は、コミュニケーションをいったんここで断絶されているかのようにも捉えられてしまいます。こちらが質問を送っているのに、電話口の向こうが無言のままだったら、何か恐ろしさを感じてしまうでしょう。それは無言が持つ含み・覆いと相乗してより強度を増してしまいます。コミュニケーションの経路を維持してるという形式的な作法だとしても、何かしらの反応があった方がよろしいのです。


とりあえず、わたしが考え付く分ではこんなところ。大雑把に言ってしまえば「えっと」「あの」「その」とかと同じようなものでしょう。何故「そうですね」なのかは、「そうですね」の方が「えっと」「あの」「その」よりは子供っぽくない、バカっぽくない、つまり公に近いから……また、相手の言葉を”受け止めている”という意味でも「そうですね」の方が優れているから、その辺かなぁとか思います。またこれだけ「そうですね」が多いと、それはある種の形式・テンプレと化して、両者に安心をもたらす社会的な、暗黙の契約ともなっているのかもしれません。