女の子性とコスプレ的な何かに関するメモ

■「オタク」から「キモいヘンタイ」へ。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20081223/p1
■「What is OTAKU? ーオタクとは何か 第18回 男の中の女、女の中の男」
http://d.hatena.ne.jp/oizumi-m/20081223

これは非常に面白くて興味深くて、それに関して色々と何か考えが浮かぶことは浮かぶんだけどどうにもまとまらないので、いささかメモ的で乱雑ですが。


オタクの「女装」あるいは「女の子になりたい」、それは見た目での、あるいは精神面での女装も含めて、大別すると二つの方向に分かれているかなぁと思います。ひとつは「女装して女性になる」、もうひとつは「女装して女性性を得る」(もちろんこの二つは共存可能)。本当に性転換手術する者と、経済的・社会的理由が解消されても決してそれはしない者という二つの極が存在する。

ただしここでいう「女性性」というのは、現実の女性性と必ずしも同じとは限らないでしょう。

戦闘美少女が、実は男の子たちの性的対象である(これがメイン)にもかかわらず男の子たち自身である可能性も否定できないからです。ただし、わたしの目にはそれが男の子たち自身の心の中にある女の子性にも思える。

ちょっと古いですが、『網状言論F改』の125ページ、小谷真理さんのお言葉。
ここでいう「女性性」とは引用部でいう「女の子性」、ひどく単純に言えば「わたしの理想の女の子」みたいなお話。それは好きだ、愛してる、所有したい、性欲の対象、だけに限らず、”自分がなりたい”という意味での理想としても(この記事内ではそのことを『女の子性』として、女性性と別けておきます)。現実の女性にマイ理想女性性が投影できない(見つからない)からじゃあ自分がなってやるよという倒錯的(あるいは完結的/女装という呪物を介して取り込めば、自慰だけで永遠に回せる)な部分も、もしかしたら含みつつ。あるいは、着せ替え感覚の、もっと軽い指向も含みつつ。


ここでは(この記事では)、「女になりたい」人ではなく、「女装して女の子性を得たい」の方を対象に。僕はどうもコスプレ的なものをそこに感じています。例えば僕のアイコン画像はゆのっちですが、これもいささかコスプレ的なものです。

たとえば、ギャルゲーの大家であるUさんとOさんは、『らきすた』のかがみとつかさになりきってメール交換をするのが常であったのだが、なぜUさんがかがみ役でOさんがつかさ役なのかということなど、僕は考えたこともなかった。しかし少し考えてみれば、社会に対して深い恨みを述べることの多いUさんには、姉として社会に対峙しながらも適切な距離をとろうとするかがみを演じることがぴったりなのだろう。同様に、人に対して気を使いすぎるところのあるOさんは、天然系で癒し系のつかさになりきることで、自分に必要な資質を取り込んでいるのではないのか。(http://d.hatena.ne.jp/oizumi-m/20081223

ここでいう「つかさになりたい」「かがみになりたい」のような、「ああいう女の子になりたい」は、当然ながら「ああいう女の子になりたい」のであって、「女の子になりたい」とは恐らく異なるでしょう(もちろん彼的には「女の子=それ」である可能性はありますが)。「ああいうキャラになりたい」あるいは「かがみになりたい」「つかさになりたい」にかなり近いのではないでしょうか。彼らに性転換手術を受けるか?かがみやつかさ”ではない”女の子になりたいか?という疑問を呈したら、果たしてイエスという回答をどれだけ得られるのだろうか。「女になりたい、と切実にいう男性」と、「女の子になりたい」と願望を佇める男性。その違いは、ここに在るのではないでしょうか。例えば僕なんかも、かがみになりたいなぁとは少し思うし、もし魔法使いが現れてお前をかがみにしてやろうと言われたら首を縦に振るだろうけど、お前をこなたにしてやろうと言われたら殆ど迷わずお断りすると思う。(肉体的な・精神的な)女装はあくまでも「女装」であって、それが「女性になりたい」に繋がっている人もいるだろうけど、全員がそうではない、なりたいのは(得たいのは)女性性(現実の女性性ではなく、自分が思う女の子性)であるという人ももちろんいる。それは独り駆動装置的な完結性もなぞってるし、理想の○○になるというコスプレ的な表面も少しなぞっている。

ラカンによれば、擬態(物まね)によって私が模倣するのは、自分がそうなりたいと思うイメージではなく、そのイメージがもついくつかの特徴、すなわち、このイメージの背後には真理が隠されているということを示唆しているように思われる特徴である。「擬態は、背後にあるそれ自身と呼びうるものとは異なる何かを明らかにするのです」

ジジェクの『ラカンはこう読め!』、P196からの引用。鉤括弧はラカンの言葉。
芸の部分(他者に見られることを前提とした部分)を抜かせば、物まねでもコスプレでも、何かに(誰かに)なりたいというのはそういう面も含んでいて。わたしたちが対象の全てを観察できないという点がまずあって、さらにわたしたちが「何故それ(そのキャラ)になりたいのか」という欲望の対象がそこに向かう道理があって、そして「そのキャラになりたい」という欲望が芽生えてる状態で対象を見ればさらにその全てを観察できなくなる――極論でいえば「わたしがなりたい○○」の部分しか観察できなくなってしまうことに行き着く。「かがみになりたい」「つかさになりたい」といい、例えばネット上などで”そういうふうに”振舞っていても、それはやはり”振る舞いである以上”、その背後にある「かがみ」「つかさ」とは別のもの――「かがみ」「つかさ」に彼らが見い出した真理を表出するもの――に、大なり小なりなってしまう。もちろん、ここでいう真理とは、先に記した『女の子性』のこと。彼女らの魅力や長所に限らず、短所とか弱い部分、醜い部分すら、正確にトレースではなく(というかそもそもそれは不可能なのですが)、『女の子性』に則ったトレースになる。彼らは勿論、かがみやつかさの可愛いところも良いところも素敵なところも、また弱いところも醜いところもダメなところも併せて”なる”のだろうけど、それでも、果たして彼らは、”自分が受け入れられないようなかがみ/つかさの弱いところ・醜いところ・ダメなところ”も受け入れるのだろうかという疑問は残る。というか、そもそも彼らに”その部分が見えているだろうか”という疑問がある。しかしこれは当たり前の話で、だってそうじゃなきゃ、やる意味がない。”なりたい誰かになるから、なりたい誰かになるといえる(あるいはなる)のであって、なりたくない誰かにはならない”のです(もちろん、ここでいう”なりたい”は自覚してるかどうかは問わず。欲望の向く先のこと)。
これは特定のキャラになりたいに限らず「女の子になりたい」にもいえるかもしれません、が現時点では踏み込みません。


■無性性への憧れ
という点では、ある程度女装は機能しえる。「女の子になりたい」という意味での女装ではなく、「女装男子になりたい」という意味での女装。そう、「女装=女の子になりたい」というのはそもそも勘違いなんです。もちろん女の子になりたい人もいるでしょうが、全員がそうではなく、「女装男子」というもの”そのものに”憧憬を持つことはありえるでしょう。
性の暴力性というのは男女どちらにもあり、男の加虐的暴力性が嫌で女の子になれば、それはそれで今度は被虐という面で暴力性に関わらなくてはいけなくなってしまうし、さらに「かつて男だった」という自分の過去の/あるいは内在する暴力性をより強く感じ取ってしまうかもしれない(無論、男にも多少以上の被虐、女にも多少以上の加虐はあります)。つまり何になろうと暴力から逃れることはできない。
しかし「女装男子」――異性愛者でも同性愛者でもない女装男子になるという、”社会規律から外れた存在”になるということで、恋愛とか性愛とかネタ的に受け流すことが多少は可能になる。社会的に定義されている性というコンテクストを逃れれば(共有的なものから離れれば)、「暴力」が消えることはなくても、その理解においてはネタとして流すことがある程度可能になるのではないか、とか。暴力は現前しているけれど、直接的でないそれならば、理解の限りにおいて受け流せるかもしれない。根本的解決には程遠いけど、精神的な部分で自分を騙くらかして折り合いくらいは付けられるかもしれない。あと恋愛しろしろ的な強迫観念からも逃れられる。とかなんとか。


まとまってないので、メモとして。