「ひだまりスケッチ4巻」を褒める


ひだまりスケッチ (4) (まんがタイムKRコミックス)
私の中での2008年ベストマンガ第一位を、年末発売のひだスケ4巻があっという間にかっさらっていきましたよ!
「褒める」も何もひだスケは昔から素晴らしいだろ、というのは皆様ご存知でしょうし、私もそう思っているのですが、しかしそれでも、というか、”それより”、素晴らしくなってしまっているのです。もう本当ビックリした。最高すぎです。今までアニメ版以外のひだスケに言及したことなかった私が、取り乱して(ええ、なんか衝撃で取り乱していますw)記事を書いてしまうくらい。
さて、では何で4巻がそんなに……さらに素晴らしくなっているのか。以下、4巻のネタバレが軽く含まれておりますのでご注意下さい。




「3巻までとの違いは何か?」と訊いたら、これはもう誰でも思いつきます、最大の違いは新キャラ。新一年生。彼女たちのキャラが可愛いとかもあるんですが、それよりも、ここで素晴らしいのが視点の作り方。新キャラクターに必ずといってもいいほど旧キャラクターを絡ませています。新キャラの言動に対するゆのっち達の反応・あるいはその逆、ゆのっち達の言動に対する新キャラの反応、そういったものを帰結点に据えて描写しているのが非常に多いです(例えば56Pとか、73P、77Pなんかは典型的)。
これが意味しているのは、「誰の目でそれを見ているのか」。例えばインターネットやパソコンの話にちんぷんかんぷんなゆのっち達、ジモッティーを外人に思うゆのっち達は、ゆのっち達から見た新キャラ達――そこにある齟齬とか、断絶性――を表しているし、同時に、新キャラ達から見たゆのっち達――そこにある(以下略)――も表しています。ゆのっち達の視点を介して新キャラを、あるいは新キャラの視点を介してゆのっち達を「見ている」。
今までのひだまりスケッチが、ひだまり荘の4人(+吉野屋先生とかちょっと)で閉じていて、今回で広がりが生まれた――そういうことなのですが、さらに続けると、「外部からの主観的客観性」が生まれた。今までが閉じていたからこそ(そしてそれが複数人(の視点のやりとり)だったからこそ)、主観的に見て客観的、になれているように感じます。新キャラ達がゆのっち達に感じること・思うこととかは、どう考えたって彼女たちの主観なのですが(いささか極論ですが、ひだまり荘の説明に引く彼女たち(P54)とか、乃莉は宮子を「変な人」と思うこととかも、主観)、それがこれまでとの落差と合わさって、まるで客観的な色合いを見せている。例えば76P・77Pの左側に載ってるお話の最後のコマとか。あそこでの乃莉やなずなの反応は本質的には主観的なものなのに、ゆのっちと宮ちゃんがまるで舞台にでも立つかのように視線を受ける立場になっているお陰で、彼女たちの視点は客観的ですらある。ここにおいて、今までの「ひだまりスケッチ」における、ひだまり荘の4人という『視点の埋没』が、剥がれ落ち、別の視点が創出されてしまったのです。これが何を生むかというと、もちろん、読者である私たち自身の視点、視座の変化です。――と、ここで一端話を変えまして。
あそこの場面、おおよそ”いつもどおりの(3巻までのような)”ゆのっちと宮ちゃんのやり取りなのに、乃莉となずなという外部の視点が明示されることで、読者にとっては、(3巻までに比して)一歩引いた、外から見ているように感じられます。今まではゆのっちと宮ちゃんしか居なかったから自然に見れていたけど、彼女たちを見る誰かがそこに存在するお陰で、今までと違った、外側からの視線が生じてしまいます(大家さんが存在した48P右側のお話なんかもこれに似ています)。
では乃莉となずなのやり取りはどうかというと、当たり前ですがこれまでに彼女たちの出番はなくて、そもそも彼女たち自身が今巻のお話で知り合ったばかりで、”いつもどおりの”というのは出来ていません。それは描写で紡がれていくものなのですが、今巻の描写においては、先に「ゆのっち達から見た」と書いたように、ゆのっち達の視点が、あるいは存在が内在されています。51Pではじめて登場し、53Pではじめて同じコマ内に乃莉たちは収まるのですが、そこから先は常に、彼女たち以外のひだまり荘の誰かが介在しています。
――しかしながら、そこは、徐々にシフトしていきます。徐々に、徐々に、話も絵も、私たち読者がゆのっち達の視点を介して彼女らを知れば知るほど、ゆのっち達を介在しなくなっていく、ゆのっち達の視点を介さなくなっていく、新キャラだけ”でも”になるようシフトして(例えば、ビジュアル面だけでいえば、乃莉となずな二人だけが同コマ内に居るというのが54P右側、60P左側、76P右側、77P両方……と徐々に割合・確率的に増えていったり)います。4コマ全てが乃莉となずなで埋まった最初のお話は、彼女たちの登場直後である53P。その後、上に記したような描写を経て、再び4コマ全てが乃莉となずなで埋まるのは、100Pの右側のお話。
つまりここまで長い時間をかけ、ゆのっち達の視点・存在の介在を徐々に減らしていき、こうしてまた彼女たちもゆのっち達の視点や存在を介さなくても私たちが理解できる」キャラクターとして立ったのだと言えるでしょう。ならびにこれは、私たちがゆのっち達の眼を得たのではなく、あくまでも、ゆのっち達に彼女らを「紹介された」ような、観察的な視点をさらに私たちが観察的に見ていたということでもあり――つまり、この今までになかったゆのっち達の「外部を見る眼」というものが、読者と彼女らを多少なりとも引き離すかのような視点の創出・あるいは相対化ではないかなと思っております。ちなみにその100Pのお話のタイトルは『なずなと乃莉』。実に象徴的ではないでしょうか。


――さて、話を戻しまして。ひだまり荘の中という『視点の埋没』が消え去り、ひだまり荘の外という視点が新たに創出されたここにおいて、必然的に――乃莉・なずなから見たゆのっち達が描かれているのだから、必然的に――読者である私たち自身の視点・視座にもまた、ひだまり荘の『外』からのものが生まれます。その導線は最初の「有沢さん」のお話で既に引かれていましたね。
僕はこの巻の話に、まるでゆのっち達が”自分の代わりに”楽しんだり喜んだり、落ち込んだり不安になったり寂しくなったり、それを乗り越えたり振り払ったり、泣いたり笑ったり”しているかのように”感じたのですが――いやなんとも、説明が難しい(てゆうかそもそも自己理解が難しい)ところなのですが、それにこそ、僕は「外部からの主観的客観性」を感じたのです。今までは視点の置き場として、基本的にはゆのっち達「ひだまり荘」の面々が居た、しかしそこに「外の」視点が生じてしまい、その視点を明確に――以前から「外」はあったのですが、さらに強く、明示的に――明確に提示されてしまい、これまでの、ゆのっち達に視点を置くという「客観的に見て主観的になる」視座に、さらに外側が加わり――外側からの視線の存在が確立し、常にそれが内在しているから――、「主観的に見て客観的になる」(あるいは主観的に見て(客観的に見て主観的になる))という感じの状況になったのです。もうわけわからんかもしんないねw
つまりで言うと、主観を置くキャラが常に「客観にさらされている」ということが明白になり、それゆえ僕らの主観に客観が潜在しているのが白日に晒されるという状況。褒めると書きつつここまでは特別に褒めてきてませんが、その特別に褒めたいのはそこ。こうなることにより、僕は、視座を置きつつ視座を置かない、心地よい距離感を心地よく享受できるようになったのです。彼女たちを主観的に客観的に見つめる、そうすると、彼女たちの笑顔が、まるで、そこに居ない自分の代わりの笑顔のように思えてくるのです…(おわり)。