だーまえ・いず・でっと(下書き)

智アフとMOON.(両方途中で放置しっぱなし)を終えてから本格的に考えるとして(ちなみに俺は智アフをプレイし終わったら自殺しちゃうんじゃないかなーって不安が約三年前の発売日に買ってきてパソコンにぶち込んで二十分くらいプレイしたあたりからずっと付き纏っていて(だって「人生の宝物を探しに行こう」とか言うんだぜ?異常だよ!)、それが恐ろしくて今までちょっとプレイしては止めて最初からやり直してまたちょっとプレイしては辞めて最初からやり直すを三年ほど繰り返してたんだけど、朱鷺戸沙耶シナリオが終わった今となっては案外普通にプレイして自殺しないで済みそうな気がするような気がしないよう……とりあえずその程度にはマシになったので今度やる)。


そろそろ。超時空麻枝信者を自称する私としましては、リトバスEX朱鷺戸沙耶シナリオについて色々と考えなくてはいかんなーとか思う。アレは、シナリオライター引退に相応しい……いえ、恐ろしく相応し過ぎる、というか「恐ろしい」一品でした。
ネタバレを防ぐために抽象的に記しますが、『ONE』が幻想・虚構を無価値にしようとして、『Kanon』が幻想・虚構を”それはそういうもの”と、想い出に、過去にしようとして、『AIR』がそれをさらに強めて、突き放すくらいにしちゃって、『CLANNAD』が突き放しすぎて対象格となって、『リトバス(リフレイン)』がそれをシニカルなくらいに、現実界の砂漠へようこそ(理樹きゅんはオアシスだけどね)とかました上で、おま、ラストシナリオの朱鷺戸沙耶がアレってどういうことなのよ。麻枝様は僕に死ねと申しておいでか。いや違う、麻枝様は「あったかもしんないけど、”ない”よ」をこんなにも示しておられるのだ。そして朱鷺戸沙耶ですら僕たちから遠く離れるのだ。つまり、麻枝様は僕に生きろと申しておいでだ。いや違う、実際には、「生きればいいんじゃん、俺は知らないけど」と申しておいでだ。ごもっともだ。この先シナリオを書かれない彼は、この先の私たちに干渉できない。そのことを十全にここに示しておいでだ。朱鷺戸沙耶シナリオにおいて麻枝氏は、我々の心の中から、彼自身を殺したのだ。


ネタバレを防がないで非抽象的に書くと(つまり以下ネタバレ)、


簡素に記しますが、例えばなにかの小説で、主人公の親友がいて、「こいつは裏切らねーだろ」と物語の主人公も物語を読む読者も信じきっていたのだけど、まさかの裏切りを見せて、物語の中の主人公が愕然として超ショックを受けるのと”同じように”、物語を読んでる読者も愕然と超ショックを受ける、みたいなのありますよね。これは”主人公も読者もまったく同じ事柄をまったく同じように感じる”という点で、両者に同じ構造的状況が生じているといえます。これは(当然この後をどう運ぶかにもよりますけど)その瞬間だけではなく、後まで引けるもので、例えば、描写や内容にもよりますけど、この後、主人公にそのショックから立ち直れる出来事が起こると、読者も同じようにそのショックから立ち直れる、とか。
エロゲでその構造的状況の同一化が顕著なのは『キラ☆キラ』のアレですね。あれは本当ビックリしました。だいたい、エロゲで主人公のトラウマ的なものを扱うときは、きまって、”主人公は既にトラウマを保有している”のがオーソドックスで(トラウマの構造上そうであるほうが明らかに都合が良いのですが)、いやこの『キラ☆キラ』もそういう面は超いっぱいあるのですが、しかしですね、ある出来事で、主人公とプレイヤーに”同じショックを””同じように与えて”、そしてその解消が、実は、主人公とプレイヤーではまったく違う(「その出来事」というトラウマを主人公とプレイヤーは共有していても、それ以外は共有していない)――いや、「その出来事」に関しては同じなんですが、それ以外は”まったく違う”のに、なのに、その”同じ部分”に引っ張られて、全てが仮想的に昇華的になる、という……や、この辺は、そのうち別記事でちゃんと書きます。たぶん。きっと。
で、だーまえさまのおはなし。
ここでは主人公とプレイヤーの構造的状況(ここでは物語的な構造というよりも、真に「構造」において)が相似であるというより”相同であれ”という強迫観念がかかってるんじゃないか?みたいな感じでして、いやそれは勿論ぼくの「読み」が勝手にそれを紡ぎ出してるんだけど、偶然の一致にしては一致しすぎてるから、いやまあ麻枝さんがそんなことを狙ったかどうかは関係なくて、結果として暗喩としてそれは作用していて、意味なんてどうせ暗喩とか隠喩とかなんだからそれはぼくにとって意味も同然じゃないかなーとか思って、だからほら、わたしは智アフできないわけなんですよ。
「現実―虚構(ゲーム)との付き合い方」において、プレイヤーと主人公とで相同的であったら模範的、みたいな面がある、とか。
『ONE』。「えいえんはあるよ、ここにあるよ」の”えいえん”は、プレイヤーからするとまんまこのゲームそのものを暗喩していて、なにせゲームは永遠じゃないですか、永遠に同じものを繰り返せるじゃないですか。「思い出を反芻するだけで生きていける」と浩平が述べたように、私たちもそこで”これ”を反芻することで生きていける永遠の世界が、ゲームの中には存在している。何回でもやり直せるし何回でも反芻できるんですよ。ゲームのデータは不滅で、長森の顔が見たいとか茜の物語を読みたいと思ったら”いくらでも”そこにアクセスできる、繰り返せる、反芻できるえいえんのせかいなのですから。――しかしながら、そうでありながら、浩平は「こんな永遠なんていらなかった」と言って、彼は、彼の永遠を放棄してしまうわけです。そして「現実」の方に帰っていく。となると、そんな彼の姿を見ると、プレイヤーである私は、ある問の前に立たされてしまうわけです。お前は「こんな永遠なんていらなかった」と現実に帰らないのか、と。浩平とちょっと前まで相同的で、これからも彼と相同でいられるチャンスもまた、目の前に転がっているのが見えているのです。
Kanon』。パッケージ裏に「冬の日の物語もまた、思い出に還る」と書いてありまして、これは祐一の、子供の頃のあゆに関する抑え込んでいた記憶が思い出されて思い出へと還る、という意味で、またKanonは、「祐一にとっては」、”子供の頃のあゆに関する抑え込んでいた記憶が思い出されて思い出へと還すための(還すまでの)”出来事を描いた物語でもありました。つまり何が言いたいのかというと、私たちにとっての「冬の日の物語(このゲームではエピローグと回想の僅かな部分を抜かして99%が、冬に進行する――そして全てのシナリオにおいて終わりは必ず春(以降))」であるこのゲームもまた、思い出に還すべきなんじゃないか――みたいなことが言いたいのです。祐一と私たちでは、そこが相同ではない、ずれている。
AIR』。いやこれはもう強制送還ですw なんだったかな、東さんだったかな、宇野なんとかさんだったかな、違ったかもしんないけど多分そこらへん。「プレイヤーは観鈴を救いたいんだけど救えない」みたいなことを”前提”にして語ってまして、いやそれはちょっといくらなんでも極論つか視野狭窄だろ、と僕は思ったわけです。プレイヤーは観鈴を救えるなら救いたいけど、”観鈴が救われないほうが面白い/出来が良い”のならば、別に救えなくたって構わない。これもまた極論つか視野狭窄だけどね(つまり何らかの中間項なり折衝点を定めるべきなんだけど)、こういう指向は確実に存在する。プレイヤーは、楽しんだり、面白がったり、涙したり、笑ったりする為にゲームをしてるんですよ。観鈴が死んだ方が死なないシナリオより遥かに泣けるんだったら、それはアリだろう、と。それこそポストモダンだったら、大文字の他者的な意味での価値が脱構築(気味に)されて、「超自我命令の究極の内容は「楽しめ」なのである」「しかし今日われわれは、ありとあらゆる方向からひっきりなしに、さまざまな形での「楽しめ!」という命令を受けている。(中略)今日快楽は、実際には奇妙な論理的義務として機能している」(鉤括弧内はどっちもジジェク)が指向性に投錨されるんじゃない?とか、まあそんなことはどうでもよくて、つまり、「楽しむ」「笑う」「泣く」「面白がる」、あるいは何かしらの「役立つもの」を、ゲームに求めてたりするのですが、要はそれって「幸せ」になりたくてゲームをしてるようなものなんじゃないでしょうか?ジジェクは「快楽」言ってたけど、(強制的なのは)「幸せ」でもあるんだと思うよ。それこそ自己責任論とかとも絡むけど、「幸せ」でないことは、何かしらの「罪悪感」をその者に生じさせてもおかしくない、という。ただ「幸せ」指向はちょっと(2・3年)前の話かもしんないすね、ドラマや映画やマンガや小説の流行とか鑑みると(癒しが流行ったのを後追いするような感じで)。今はなんだかわかんないけど。音楽の、日本人ラップとかはなんかずっとそんな感じですけどね。いずれにせよ『AIR』の頃は有効的だったんじゃないかな、とか。ごめんちょっと適当に書いてるけど。――つまり、「幸せ」を求めて『AIR』っていうゲームをやったら、ラストのラスト観鈴が死んだ後に、なんかよくわかんない物語より上位のメタ的なメッセージの奴が、「あなたにはあなたの幸せを、その翼に宿してください」とか言い出すわけですよ。つまりこれもまたさっきまでと一緒なんですけど、『ここ(ゲーム(の物語))から抜けろ』ってことを、一足先にそこから抜けた往人&そら&観鈴と相同しろよ、ってことを、言ってるわけです。ここに幸せはないよ、あるいは、あったけど今はもうないよ、と。
ちなみに、『AIR』のテーマは「幸せ」って、発表当時のエロゲ雑誌の記事に書いてあった。
CLANNAD』。これは象徴的というか表徴的というか。一月くらい前に書いた「CLANNADは人生」の記事でも読んでくんろ、という話で。そこになんか色々足されるんだけど、やー、まー、わたしの手には負えないネタでもあるので、ちょっと放置。
リトバス(リフレイン)』。これはもともと、「理樹と鈴だけが現実に還ってきて他のリトバスメンバーは全員死んだ」というのが、第一稿だった。これじゃ暗すぎ、みたいなこと言われて、だーまえさんは続きを書いた。そういう意味じゃコレどうなんだろという疑問はちょい残るのかもしれないけど、これはこれで、ある意味を持つ。 理樹と鈴だけの帰還だったら、プレイヤーにとっては、「自身とゲームの記憶の帰還」という点で、相同的であると思うんですよね。それがまあ、結局、みんな連れ帰れてしまった。これはどういう意味かというと、ゲームの中で理樹くんは虚構から外(現実)に出てそこでも虚構と同じメンツである意味虚構と同じように楽しく暮らす、ということなんだけど、プレイヤーにとっては、絶対に相同にならない、つまり、「理樹が帰還した現実すらプレイヤーにとっては虚構」というのを決定的に見せしめている。ここまで続いた相同性――相同可能性と、それに伴う「現実―虚構(ゲーム)との付き合い方」を放棄している。これが(もともとは)だーまえさんラストシナリオだった、てのが大きいでしょう。最後において、主人公とプレイヤーを同一化することによってゲームの外でも生きていける(ゲームの外でもゲームの主人公が生きていける/ある意味でゲームが続く)を、否定している。
リトバスEX朱鷺戸沙耶シナリオ』。ここで、この本当の最後で、『リトバス』で描かれていたものがさらに、やばいくらいに、包括的で圧倒的に、昇華されます。沙耶シナリオにおいてプレイヤーが相同的であるのは、主人公の理樹くんではなく(だけではなく)沙耶当人です。いやもう恭介たちが作った虚構になんか勝手に紛れ込んで遊び散らかして、でも本質的には孤独(彼らと繋がれない)で、その虚構から抜け出すには”自分で(自分の意思で)終わらせるしかない”なんてモロにまんまじゃないですか。彼女は銃で自分を撃たなきゃ終わらせられないわけで、わたしたちは自分で電源切らないと終わらせられない。
これ、最後のところ、なんか沙耶が子供の頃に戻った?(今までが「夢」みたいになってて)感じで理樹くんとサッカーして、そんで、鈴の代わりに沙耶が居る、という一枚絵が表示され、エンディングは、”制服姿”の沙耶が雪に埋もれたのち芝生に寝ている、みたいな感じになるじゃないですか。――ああ、えっとね、ネットでね、「結局沙耶は子供の頃に理樹と会ってたの?あれは夢(予知夢的な)なの?」みたいな疑問を呈してる人がいらっしゃったのですが、それは『書かれているとおり』です。そうかもしんないし、そうじゃないかもしんない。ありえる話だし、同時に、ただの幻覚なのかもしんない。では、「鈴の代わりに沙耶が居る、という一枚絵」は? それは、「あったかもしんないけど、”ない”」。もしも沙耶が子供の頃に理樹と遊んで仲良くなってて、そのまま、日本に住み続けて仲良くなり続けていたら、リトルバスターズのメンバーに入って、あの「絵」のような光景があったかもしれない。あるいは日本に住み続けてなくても、理樹と、そして恭介たちリトバスのメンツとも仲良くなれていたら、リトルバスターズのメンバーに入って、あの「絵」のような光景があったかもしれない。でも、”ない”んです。可能性として、あったかもしんないけど、ない。いや実際”ない”じゃないですか、そんな光景。これは「タイムマシーンに乗って逃げた」という、いかにも理樹を慰めるために恭介が用意した嘘っぽい言葉と合わさるとちょっと否認的な効果も生みますね。最後の光景、あったかもしんないけどなかったかもしんないもの、あったかもしんないけどないもの、なのに、タイムマシーンに乗って逃げた、なんて、十中八九分かる嘘にすがれば、それを「本当に(は)”あった”」と言って自分を騙すことができる。――いやまあ否認かどうかはとりあえずどうでもいいです。いやどうでもよくないんだけど、僕ら自身が、その「あったかもしんないけど、”ない”」を認めること――例えば、リトバスってゲームの物語は、ゲームプレイ中にあったかもしんないけど、実際的には”ない”、わけで――が大事なんだけど(そしてそれは「死」という意味でのみの相同性をここに保つことになる……でもそれって相同性と言えるのかな?)、とりあえずここで最も重要なのは、沙耶が”そういう対象になる”、つまりもうプレイヤーから遠く離れた存在になってしまう、ということです。彼女の死、彼女の虚構からの死によって。
そして、これにて、麻枝様最後のシナリオにて、全ての相同性が死んだのですよ。もはやわたしたちに寄る辺となる相同的対象(指標)をここに提示しなかった。この先シナリオを書かれない彼は、この先の私たちに干渉できない。そのことを十全にここに示しておいでなのです。朱鷺戸沙耶シナリオにおいて麻枝氏は、我々の心の中から、彼自身を殺したのです。つまりここまで続いた相同性・相同可能性をここで消去するというのは、麻枝さんに――彼が提示したものに「頼る」という姿勢を”ここにおいて”否定するものであって、今までが、「彼のようにやればいい」だったのに対し、今回は、最後らしく――恐ろしく最後に相応しく、「好きにやればいいじゃん、俺は知らないけど」と申しておいでなのです。


ふー、筆が滑った。これは下書きなのでー、そのうちなんか、もうちょっとまともに書くねー。