CLANNAD AFTER STORY 13wa daiichiinnsho-


えーと、色々と書いてたのですが、保存前に消えた(笑)。


すみません復活できえません。もう一回書くのとか無理です。えー、一言でいうと、今回も良かったよーとか、そんな感じ。
ただ今回は演出が”目に付いて”しまうくらい主張してたよね、というか前回が自然すぎたという話でもあるのですが、なんというかちょっと気になる。
たとえば冒頭の……あーごめん、やっぱ改めて書く気力がないわー。ショックすぎるわー。
CLANNADは――CLAアフで、いやここ数回で、特に強調されているような気がする(あるいは僕がそれを気にかけるようになった)――朋也くんと視聴者との関係が、微妙な感じに同一的であり同一的でないポジションに持っていってるように思えます。たとえば、今回冒頭の、野球勝負の一回目、朋也がおっさんに負けたあと、諦めそうになってる朋也と、それを励ます早苗さん、この両方においてカメラはそれぞれに寄ってる――視聴者的には「言われている(あるいは「言ってる」)」ような位置取りなのに、早苗さんが「(諦めない理由は)渚のためにも」と述べる瞬間だけカメラが引く。こういう地道な作業の積み重ねが、朋也くんと視聴者との関係を、「視点人物」と「それを見る者」という関係――だけど(カメラの動きがその瞬間だけのように)まったく非同一ではなく、ある程度同一的に、つまり、朋也を、まるで自分のことのようでありながらまるで他人のことであるかのように、感じられるような、非常に微妙な距離を、保っているように見えます。そもそも第一話の「俺たちは登り始める、長い長い坂道を」と朋也と渚が坂道を歩いていくところを、カメラの場所からも、それを追わないでOPに入る構成からも、視聴者が「見送る」ようになっているのが象徴的……というか、そもそもの始まり的です。
うーんと。この話に持っていくまでに長々とした枕と論述と叙述と前提と例題と議題があったのですけど、保存前に消えたのでスルーします。てことでなんかイミフかもしれないっすね(汗
この距離感の創出はCLANNADの物語を考えるに非常に重要だと、わたしは考えています。てゆうかこれが肝要だろ、くらいに。しかしこんなのはアニメ化しきれない部分だと思っていたけど、それをやってしまうなんて京アニはまあ相変らず凄いっすね。


F5の方に私信。昨日は寝てましたw ごめんなさい。
「もうこれ最終回でいいんじゃね?」――9話のときにも、12話のときにも、どこかで見かけた感想なんですが、「もうこれ最終回でいいんじゃね?」的なものが、延々と続いていくのがCLANNADです。それが恐ろしい。たとえば昔話のように、こうして王子様とお姫様は末永く幸せに暮らしていきました、めでたしめでたし。が言える場面でさっさと終わらせればいいのに、そうしない。その先の、「末永く」の部分を、紆余曲折を、描いてしまう。だから逆に、”そこで終わらせなかった”こと、そして(いずれ来る)”あそこで終わらせること”の意味が、前景化してしまうともいえるでしょう。CLANNADはいつか終わる――あそこで終わるけど、他の場所で終わらずあそこで終わる理由は、問い問われ、白日の下に出さなくてはならない。とかなんとか。