アニメWHITE ALBUM 「冬弥に感情移入できない」のはたぶん正解です。たぶん。


WHITE ALBUM』1話見ました。うわぁー、面白いけどつまんないしおもしろいけどつまんないし面白いけど……(以下無限ループ)
いや、これ何気に実験作なんじゃないでしょうか?
ひとまずの注目点は「音楽」でして、ご覧になったみなさんはご存知のように、殆どの場面において、ヴァイオリンっぽい楽器でクラシック的なアンニュイ・あるいは落ち込む・ふさぎこむ・ネガティブ、そういった感じの楽曲が流れていました。僅かばかり挿入された「歌(歌曲)」の場面を除くと、サウンドトラックが流れる時、その殆どが暗い感じに、ネガティブな感じに聞き取れるような音楽でしたよね。
これは――この音楽は、中心人物となっている冬弥の心情を表しているのか? あるいは、他のキャラクターが出てくる場面はそのキャラクターの(例えばTV局でだったら由綺のとか)心情を表しているのか?  いえいえそれは、決して、必ずしも、そうとは限りません。例えば、わたしたち視聴者から見ればコミカルなシーン、だけど物語の中のキャラクターにとってはシリアスなシーン、そういう場面では、音楽とキャラクターの心情に「ずれ」が生じることが多々ありますよね。キャラクターは本気で必死で逃げている、その心情を表現しようというならば、緊迫した、真剣でシリアスな音楽が流れていたほうが正しいだろう、けれど実際に流れる音楽はコミカルなソレ、とか。具体的には、「サザエさん」において悪戯をしたカツオがサザエから逃げ惑う場面とかね。
ではこのホワルバについてはどうなのか? それが、「わからない」。そう、ここが面白いんですよ。観れば「わかる」とおり、まず圧倒的に「わからない」ように作られていますよね。登場人物の全てが。まず明らかに、驚くほどに、わたしたち視聴者と物語世界内の彼らが、情報を共有していない。何の説明もなくまるで当たり前かのように、次から次へキャラクターが出てきます。こいつは冬弥とどういう関係なのか、この出来事はあのキャラクターとどういう関係なのか、そういった所が、明らかに説明不足。もちろん想像も推測もできる。しかし翻れば、想像も推測も明らかに必要としている。さらにモノローグの無さと、あの「書き文字」。一見するとあの「書き文字」は、モノローグの代わりとなる、心情の吐露かのように見受けることもできなくはありませんが、それだってかなり疑わしい。時制のゆがみ――明らかに未来からの発言であるものもあるし、その内容もまた、普通の(わたしたちが通常のアニメで見る)モノローグから逸脱している面がある(つまり解読コードをわたしたちが有していないようなものを”わざわざ”描いている)。お話の流れもまた、不明瞭さを加速させます。キャラクターの行動のつじつまが、原理が、誰にでも一見してわかるようには描かれてはいない。早い話、登場人物、彼らの長期的・あるいは短期的な「目的が何なのか」が、もう驚くほど不鮮明。彼らの「役割」みたいなものを仮定するのも、非常に不確定になるでしょう。それこそ、プロップじいさんが昔申し上げた登場人物の役割と機能のようなものですが、物語の受け手は、物語の登場人物をある程度類型しながら受け止めます――というか、人間の(物語)認識が、意味作用というものが、勝手にそうしてしまいます。自分の知っている人物で、何一つ類型(例えば友人とか、恋人、クラスメイト、同僚、親、兄弟、敵、危険人物、好き、ちょっと好き、あるいはその候補とかとか)的なものがない人物など居ないでしょう(それこそ言葉遊び的ですが、不明・不可能という逸脱も合わせてしまえば)。これは「物語」を生み出すのに必要となってくる認識です。意味のある出来事と意味のないという意味がある出来事とを因果と時間軸で紡ぐ物語認識の過程において、そこにかかる登場人物は、そこにかかる”ゆえ”に、意味を(あってもなくても)付けざるを得ないのです。と、話を戻して。そういった点での類型すら、不確定、非常に流動的なものになる。キャラクター紹介が全然なされていないですからね。そのうえ物語がよりそれをなしていないし、書き文字が嫌なくらいにそれを乱す。ここにおける類型は、物語やキャラクターからではなく、それこそデータベースからの、当て嵌め的な、不確定さが強いものになるのではないでしょうか。
つまり、キャラクターが全然わからない。なにせ原作ゲームを大昔にプレイしたことあるわたしにすら全然わからないのです、このアニメ版がはじめてという方にとっては如何ほどなのでしょうか。
そこで、一番”はじめに”目立ったのが、音楽。

最初の、夢のシーンで、「由綺の言葉を聞かせないように」「夢を終わらせるように」鳴り響いていた、激しいギターによる音楽。
なぜここが――というか”ここだけが”、今回で散々流れた、クラシック調の、暗い・アンニュイな音楽ではなく、激しく、強く、明るさを醸すギターによる音楽なのか。
もちろん音楽だけでは不充実もいいところなので、他の全てもプラスして。由綺の、決定的な(と思われる)セリフに被さるノイズ。強風と共に吹き飛ばされる全て。「あちら側に」消えゆく由綺。そしてこれが夢だということ。さらに寝過ごしてはいけない日なのに、この夢を見て寝過ごしたということ。
この夢の意味は、だいたいご推察が付くでしょう。由綺が冬弥の前から消えること。そういう未来を暗示していますが、ここで重要なのは、由綺が冬弥から離れる段になって、暗い・停滞した空間が、激しく力強い音楽と、強風により流されていき、緒方さんと由綺が到達する地点は、明るく、活気に溢れ、力強さに満ちた空間だということ。冬弥ひとりを残して。


「冬弥に感情移入できない」といった感想を色んなところで拝見しましたが、それは正しいのです――というか、そういうふうに作られているんじゃないか、と勘繰ってしまうほどです。まず、記したように、「わからない」というのがあります。冬弥が――これは他のキャラにも言えることなんですが――わからない。わからないだけならまだしも、これだけ(1話分)観ても、わからない。こんなにわからない奴に感情移入するなんて難しいことです。どこに投影して、どこを同調して、どれに仮託して、どれを納得すればいいのかがわかんないくらいに「わかんない」のですから。
そして次に、夢が記したような、この暗さ・停滞。これは夢だけではなく、作品内全体においてもそうです。流れるのはクラシック調の、暗い・アンニュイな音楽。由綺と会えない冬弥。楽しい出来事より、暗い・ネガティブっぽい出来事ばっかりが描かれている物語(偶然かもだけどニュースで流れる日経平均株価すら下落させている徹底ぶり)。殆ど全ての登場人物が、何らかの点で上手く行っていない(非順調)なのが照らし出されている。
映されるのは暗い・停滞した部分ばかり。明るい部分がこのお話にあったか? ――あった、一箇所だけあった、それは、由綺が冬弥から離れたあの夢の場面。あるいは、ラストの由綺と緒方理奈のやりとりも、また衣装問題の解決部分も、明るく、停滞から脱却する力強さを孕んでいたでしょうか。
そう、この点においては、冬弥に感情移入できないどころか、冬弥に感情移入する「理由が(メリットが)ない」。由綺と冬弥が付き合い続けるより、由綺が芸能界に行ききった方が楽しく、明るく、停滞から脱却し、力強いかのように描かれているのです。


だからこそ、この「わからなさ」なのでしょう。由綺が冬弥から離れていくのは、それは決して、視聴者にとっては――というか、物語にとっては「悲劇ではない」。だからこそ、今はまだ、感情移入する時ではない。あるいはずっとそうなのかもしれない。群像劇として、彼らへの感情移入から悲しみや喜びを享受するのではなく、彼らを観ることから悲劇や喜劇を享受する。この物語のもう一つの強調点は、非共時性。それこそ、1986年と2009年の非共時性からはじまり、由綺と冬弥の間に幾度も生じる「録画放送」と「生放送」の認識のズレや、同じ場所に居ながら同じ時間を共有することはないキャラクター同士や、突然に切れられる電話による会話や、時制が不明瞭な書き文字や。そして視聴者の非感情移入。この「ズレ」を、埋めるのではなく、そのままに、むしろ強調するくらいなのがアニメ版ホワイトアルバムの方向性なのかもしれません。とかなんとか。それとここがあの女の(ry 。おわり。