作品(物語)の『真の意味』についてのメモ

なんか色々と本読んでたら思いついたのでメモっとく。多分しょぼいよ。


小説でもアニメでもマンガでも映画でもエロゲでもなんでもいいだろう。作品(物語)に、『真の意味』なるものが”もし”あるとしたら、はたしてそれは”どういうもの”を指すのか?
「作者がいて作者が書いてるんだから作者が言ったことが正しいんじゃない?」――なるほど、それは一理あるだろう。作者さまが「わたしはこの物語にどんな困難でも諦めずに頑張れば必ず報いがあるということを描いています」と仰れば、なるほど、作者さまがそういう意味で(意図で)描いた、という意味は生まれるだろう。しかし作品(物語)全体の――全ての”意味”が、はたしてそうなのだろうか。「作者の意図」が、イコールで「作品(物語)の意味」へと変換されうるのだろうか?
日本史の授業で一度は耳にするだろう有名な一文がある。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」。この一文について、こんな文は実際には無かったとか、これはどこそこの陰謀で書かされたものだ、とか、諸説あるけど、ここではその辺は措いといて、まずみなさんが日本史で習ったとおりのことを標榜として掲げよう。すなわち、日本側は、とくに含みもなくこの文章を送ったのに、受け取った隋側が、「「日没する」ってなんだよ超不吉じゃんお前の時代は終わりだよって意味かこれはテメー喧嘩売ってんのかぁ!」と解釈しブチギレた、というお話。この文書は『作品』『物語』とは言えないかもしれないが、しかし”このように”、意図と、それを文章に直した際との間に、齟齬が生じる――読み手が、意図と異なる解釈をすることがあるのは、よくわかるでしょう。その辺に日常生活で幾度かぶち当たった人も多いはずです。あなたを傷つけるつもりはなかった言葉なのに、結果的に、あなたを傷つける言葉となってしまった、とか、無垢な子供の一言に傷付けられる、とか。
このような『文章』と『意図』との分離はある――というか、文章に卸した瞬間に必ず起こるでしょう。ロラン・バルトの『作者の死』がいってるのはだいたいこんな感じ。『文章』にすることで、どこかに、何かが、乖離され、どこかに、何かが、過剰に/余剰に足される。これは文章以外のメディアでも当然起こるでしょう。
つまり『作品(物語)』は、そこに見い出した意味は、決して、その全てが『作者の意図』によるものではないということ。隋がめっちゃ怒る文章も、ビートルズの曲名をアクロスティックに読んだら麻薬を示唆していたなんてのも、村上春樹で感動したというのも、CLANNADが人生なのも、その全てが、必ず作者の意図によるものとは限らないということ。なにせ作者の意図以外のものも含まれるし孕まれるのですから。
では『作品(物語)』にはどのような『意味』があるのだろうか。作品は作者の意図だけでできてはいない、というのは確かだけれど、しかし『作者の意図』はおおよそにおいて確固としてある。そりゃそうだろう、真にシュルレアリスム的ならともかく、私たちが何か書くとき、それがどこまで徹底されているか・表現されているか・内包されているかはともかくとしても、多少なりとも何らかの意図はある。では――例えばある作品を読んで、それに勇気付けられるなんて場合はどうだろう。もちろん「勇気付けられる」にも細かい内容があるのでしょうが、ここでは、全てを含んだ上でその一言に換言している、としておきましょう。私はこの本を読んで勇気付けられた。私にとってこの本の持つ意味は”それ”である――というのなら、それは『読者の意味』ではないだろうか。私にとってのその作品の意味、だ。だがしかし、どうだろう。先にも書いたように、ありとあらゆる作品は作者の意図を十全に示すことなど決してなく、その意味は、例えばCLANNADは人生と呼ぶものと、それを嘲笑うものと、それを静観するものとが居るように、決して全員に同じ意味をもたらすわけではない。読み手個人個人の事情や、生い立ちや、感性、読解力、そういったものを鑑みれば、全ての読者において異なる意味が創出されるともいえるだろう。そして、”そういったものを鑑みなくても”、異なった意味が創出されるともいえる。ひとつの解答の裏には必ずそれと対と成る解答が存在しうる。「どんな困難でも諦めずに頑張れば必ず報いがある」という意味は、「頑張らなければ報われない」という意味をもつし、「これほどの困難でも諦めては報われない」という意味をもつし、「困難を頑張れば報われるというナルシシズム」という意味ももちうる。全てには裏とでも言うべき多義性があり、そしてその裏は、表を批判するのに持ってこいでもある(「至上主義」という言葉を付ければ全てが批判できよう)。
ここにおいて、いわゆる『テクストの意味』が産出される。それは書き手も読み手も越えた――不関係な場におけるテクスト自体が持つ意味、多義性も多解釈性も全て内包された、テクスト自体が持つ可能性的な『意味』だ。
さて、ひとつ補填を。私たちは好き勝手に作品・物語を読解しているかというと、必ずやそうではない。ある程度のコントロールがなされている。ご存知の通り、エーコの「モデル読者」「モデル作者」あるいはイーザーの「含意された読者」「含意された作者」がそれにあたるだろう。
どういうことかというと、この直前の文章がその一番簡単な実践にあたる。「ご存知の通り」という一節だ。「ご存知の通り○○であるが……」と記されたとき、読み手の心情はどうだろう。この文章は、”それをご存知な人間に向けて書かれている”と捉えはしないだろうか。書き手においてもそうだといえるだろう。それをご存知の人間に向けて書いてる、という点で、不特定な誰かに向けて記された文章が、少なくともその前提は共有できる誰かに向けて記されている文章へと変貌する。読者にとっても、作者がそれを「ご存知の通り」と述べてしまう――それを自明が如き扱う人間であり、またこのテキストは、それを「自明なものとしている」ということを明らかにしている。つまり「読み」の可能性の無限性に、ある程度の鎖を付けることがこれで可能になる。――たとえば、「ご存知の通り」と書かれてしまえば、少なくとも、”それをご存知でない自分の解釈は誤りである可能性が高いのではないか”、とか。「物語」においては、むしろ、読者自体をロールプレイさせる――モデル読者に”してしまう”という点で、こういった誘導も図れるだろう。まあ「ご存知の通り」は、単純に、俺こんなことを自明的に知ってるんだぜーという自己顕示の表れ、である/そう読み取れる場合も往々にしてあるのですが。
さて、ひとまず、『作者の意図』『テクストの意味』『読者の意味』と分別したが、では『真の意味』的なものはどこにあるのだろうか。作者にとっては『作者の意図』が正しく、それぞれの読者にとっては『それぞれの読者の意味』が正しいのだろうか。それは一理ある――それは一理あるし、それでいいと思う。けど、しかし、考えたら――いや、考えるまでもなく、それはどう考えても到達不可能だろう。「それ、届かないよね」という一言を送り届けることができるだろう。作者は、いかにして、自分が作品を描いたときの意図を、その全てを、知りえるのだろうか。『作品』ということは、少なくとも今よりも過去に書いたのだ、その過去の自分の意図を、今の自分の意図がどうやって推し量る? あるいは、右手で作品を書きながら、左手で意図をメモっていくのか? それでも――それでも、無意識下で抑圧された、本人に認識不可能な意図があったらどうなのだ。そこをどう”認識する”? そして、もしそれが全て可能だとしても、意図を意識するためには、あるいは言明するためには、言葉が必要なのだ。そこで新たな問題が生じる。何の言葉を使う?何の言葉に置き換える?それは正しく意図を表現できているのか? ――これは『読者の意味』においても同じく。ある本を時間をおいて再読したら「意味が(印象が)変わった」なんて経験は、誰にでもあるでしょう。その場合は、どうする、どうなる。作品を読んで感じた心象を、どう言葉に表す、何の言葉で表す。 いつの自分の、どの程度の自己解釈が、はたして『意図』『意味』として『真』足りえるのだろうか?
『テクストの意味』も、また同じ。はたして、もしそれがあるとして、それは届きうるものなのだろうか。テクストの意味がもしあって、それがポンっと目の前に出されたとしても、それを見る私たちは私たちなのだ。そこにはどうしても主観というものが引っかかってしまうのだ。どんなに頑張っても、主観をゼロにすることはできないだろう。それこそ「物自体」と同じ様に、『テクストの意味』もまた、届かない場所にあるのではないだろうか。


つまりは、『真の意味』など無いか、『あっても届かない』、これが私が思う解答。だからこそ、近年ではコンテクスト批評――「何が描かれているのではなく、何を前提に描かれているのか」が語られるのでしょう。コンテクストは基本的に無限だから、対話ならともかく作品(物語)においては『真の』と評されるものは有り得ないから、否定化も特権化もせずに語りうる。


とかまーなんとか、とりあえずそんな感じ。
※多分さんこーぶんけん http://d.hatena.ne.jp/asin/462200481X / http://d.hatena.ne.jp/asin/4791760336 / http://d.hatena.ne.jp/asin/4791759648 / http://d.hatena.ne.jp/asin/4062122073 / http://d.hatena.ne.jp/asin/4000002082 / http://d.hatena.ne.jp/asin/4309242332
あとなんか(思考の澱的に)参考にしてると思うけど忘れたとか記すまでもないレベルとかなんとかで省略。