空を見上げる少女の瞳に映る世界 第1話 だいいちいんしょー

空から女の子が降ってくるというか、女の子に空が降ってくるような、そんな気配を漂わせる「空を見上げる少女の瞳に映る世界」というタイトル――長いから以下『テレビMUNTO』で。
つか、中身もほぼ全て『MUNTO』でした。
僕は『1』だけ見たことがある(『2』は積みっぱ。もしかしたらちょっとは見てるかも)のですが、何の前情報も無く適当にテレビ付けてたら放映してたので観てみたなんて人は驚きなのではないでしょうか。OVA準拠ですから、とにかく、展開が速い。テンポが速い。話を(第1話なのに)ばんばん多重展開する。設定もドカドカやってきて、そ知らぬ顔で居つく。作画が綺麗。動きも細かい。――つまり、超が付くくらい、濃密。
この密度でこのクオリティのものを出されたら、もう自然といっていいくらいにあっけなく、引っ張られるよなぁ。そんな感じです。
お話自体は、たしか「分かりやすい」もの――演出なども含めて――だったと思うので、その方面に取り立てて述べることは無いのですけれども。雨に濡れたアスファルトがまるで鏡のように空を映し出すのは、頭の遥か上――空にあるものと、足のすぐ下――地面にあるものとが、実際には「差は無い」ということを示したいたんだろうな、とか、改めて思いました。OVA見た時は「パンツだけは反射しないのな、この雨水!」とか、そんなことばっか気にしていたのですが、こう、改めて観ると、色々と視えてきますね。
しかしオープニング観ていて思ったのですが、最近の京アニは本当エロいですね。京アニのエロティシズムは、パンツ見せるとかおっぱい見せるとか、あるいはチラリズムとか、もしくは風呂場や海・ビーチサイドなどのシチュエーションやらやら、普通によくある”そういったもの”では断じて無くてですね、とにかくもう、一点なんですよ。「線」。「形状」。それも、ここが一番重要なのですが、『動きを伴う』ところ。身体のライン、という言葉でもおおよそは同じなんですけど、ちょっと違う感じ。このオープニングにおける、無駄に(そう、明らかに”無駄に”です)体にピタっとフィットする制服、あるいは、彼女たちが駆けていくところの脚、動き。パンツが見えるかどうかなんて腐れエロく無いんですよ。あの妙然と現れる彼女たちの(服を含む)身体、その一部、動きを伴うその一部がエロいのですよ。
CLANNAD AFTER STORY』エンディングの、出だしのところを思い出して下さい。あそこ、渚――ではないかもしれないけれど、ここでは便宜的に渚ということにしておきます――がスキップするかのように脚を大きく動かして歩いているじゃないですか、あれ、実は本編での彼女のスカートの丈より、めっちゃ長くなっているのです。本編じゃなんかふともものかなり上の方という、いたく挑戦的で挑発的な丈の衣服をお召しになっておられるけど、エンディングのあそこの箇所だけは、概算でひざ下くらいと思われるほど、衣服の丈が長くなっているのです。なぜか――一番に思いつく答えはおよそ物理的に簡単な発想で、つまり短い丈のスカートであんな動きしたらパンツ見えちゃう・あるいは”なんとかしてギリギリ見えないくらい”になってしまうからでしょう。それは放送できないレベルなのかというと、そんなことありません。パンツは出来るかどうか分かりませんが、例えばスカートの丈をもう少し調節して、パンツがギリギリ見えないくらいにすることは簡単に可能な筈です。しかし、そうしなかった。
ここでひとまず、発想を逆転させましょう。「もしそう(パンツがギリギリ見えないくらいに)していたらどうなったか」という、可能世界を考えてみましょう。どうでしょうか。ええもうすぐに思いつきます。そうなったら、エロいです。だからこそ、そうではなかったのです。エロいからこそ、エロくない丈になったのです。それが京アニのエロティシズム。かの会社が作り出すアニメーションにおけるエロさは、単純な視覚情報――エロい物が見えたからエロい、という、単純な視覚情報ではなく、動きを伴い、キャラクターの身体の線・形状を異化することによりもたらされるのです。僕なんかは、渚の腕が動くだけでも、たまに「うわ、エロ!」とか思ってしまいますよ。デフォルメされたものではなく、現実的なもの――というより、現実的にデフォルメされたものが、動きを伴って現れるのですよ、それがエロい。
いや、逆かもしれません。線や形状というのは、『らき☆すた』みたいにデフォルメされたものではなく、『CLANNAD』のように現実的頭身・形体にデフォルメされたものであれば、もっとも、その「現実的なデフォルメ」の中で最も「現実的」に認知できるものではないでしょうか。類像的な意味で。これは「現実的なデフォルメ」ですから、現実に対し類像的である必要はありません。彼女らのプロポーションを見ても明らかなように、類像させるべきは、むしろ、心象の中にあるプロポーションの方にあるでしょう。それはエロ・あるいはアイドルなどのグラビア・メディアによって形成された、私たちの中におけるエロティシズムを醸す身体のシニフィアンとでもいうべき存在です。ああ、あるいは、データベース的といってもよろしいかもしれません。そこに類同していくのです。
その、意味を持たず、形のパターン・あるいはおぼろげなソレしか持たない、エロティック身体のプールに、京アニが作り出した「現実的デフォルメ」された身体が、「動き」により魂を与えられて結合し、私たちに「うわ、これ、エロ!」という意味を与えるのです。
つまりこれが京アニのエロさの正体。体育倉庫に閉じ込められて二人きりとか、そういうシチュエーションなんて、おまけみたいなもの。これまでのことを逆から言えば、記号的身体という言葉の「記号」が、記号学的な意味を持ち、つまりそこで描かれている身体の指示対象が、私たちの心の中のエロスの琴線に触れる身体を対象としている、そうなってくるのです。
京アニのエロ』については、(今思いつきで書いてただけなので)、後日、もうちょっと詰めようかなぁとか思います。たぶん。きっと。


ということで、えー、エロのことしか書いていませんが、おわりです。